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いせひでこさんという絵本作家の作品に「にいさん」という絵本があります。画家であるゴッホと、その弟であり画商であるテオの物語を、弟のテオの視線から書いたものです。ゴッホはよく知られているように、生きている間はほとんど評価されず、怒りと失意と貧窮の中で若くして亡くなりましたが、ただひとり弟という理解者がいた。その弟が兄の死に際して捧げた言葉、―――にいさんは、ぼくのすべて、ぼくだけのにいさんだったのです!―――それをベースに素晴らしく美しい絵と詩的な言葉で描かれているわけですが。
もうこれはエール以外の何物でもないと。むしろエースのことかと。
例えば、こんな感じ
葬送の場面。
「空がきみをかくしている。それとも黄金いろの麦の波の中なのか。風がないのに穂が揺れている空の青と日の照り返しがあんまりまぶしいので、棺を運ぶ友たちの顔が笑っているようにみえる。
空の高いところで鳥が鳴いた。―――ヒバリだ
実った麦、刈りとられる麦の穂の匂い、きみの匂い。
でも、きみはどこにいる。」
幼い日の思い出。
「雲の影を追いかける。そんなとき、きみが麦穂の波間にみえなくなるのが、ぼくはひどくこわかった。
でもきみは手をふりながらいつも笑っていた。世界に何も怖れるものなんかないようだった」
あるいは
「きみは飛びたつ。絶望の井戸の底から見上げた点のようにちいさな空をめざして」
「ぼくに未来はあるだろうか。あるさ、だって空には無数の星があって、ひとつがだめでも、どれかひとつくらいはぼくの星さ」
「歩きながら、さすらいながら、きみはきみの真実をひろった。きみは捨てるものなど、何ももっていなかった。」
「未知の土地で、きみは熱病のように、勇気をふりしぼって描いたのだった。
ひとりぼっちのきみを忘れるために、ぼくという空白を埋めるために」
「きみはみえない翼をひろげる。世界には何も怖れるものはないかのように―――
きみは自分を解放した。
ひまわりの声をきき、麦のことばをきき、星の歌をきいたにいさん。
きみは、ぼくらのあの空に帰って行ったのかい」
………。エースゥゥゥゥっっっ!!!
何で死んじゃったかなぁ…。とわかっていることを何度もくりかえしたくなるのも、ゴッホもそうですが、若くして認められず死んだという物語がその作品を際立たせる(少なくとも素人にはわかりやすい)ように、「エースの死」が物語をいっそう美しくわかりやすく完璧にすることが、とてつもなく苦しいからだと解釈してみる。エースが生きていたらと思うけれど、エースが生きてしまっていたら、きっと、この物語の美しさは損なわれてしまうのだろうと。美しくなくても人気のキャラは死なせないというのが大半な世界にあって、この物語がひたすら尊いのが「エースの死」という悲劇によって支えられているのではないかというのが辛い。悲劇が、挫折がない人生など存在しないと、そんなヒーローなど願い下げだと思っているのに、その大切な人の死を追体験することが苦しい。
ゴッホの絵をゴッホの悲劇も含めて見ることで感動をすることが辛い。エースの死があったから、これからの未来の(例えば海賊王となる)ルフィがいるのだと、感動することが嫌だ。作品が嫌なのでなく、そう解釈してしまう己が嫌だ。エースが死ぬことでこの物語はより美しいかたちになったという己の解釈が嫌なのです。だからエースが生き返ってくれないかなぁと呟き続ける。ああもうすんません。酔っ払いのたわごとです。
青と黄金色が美しい絵本です。偕成社です。ぜひどうぞ。
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