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あおいとりドロップ 1 (パロ)

 

 
 
 
ある晴れた秋の日。
おれはじいさんの訃報を聞き、有給とって荷物をまとめてかけつけた。
 
 
そしたらそこには。
 
見知らぬこどもがいた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あおロップ
 
 
 
 
 
 
 
 
何年振りかに帰る家は当たり前だが何一つ変わってはいなかった。あいかわらずぼろ家で庭ばかりが広くて、名前の知らない花が咲いている。
だから、その庭の真ん中に突っ立っていた真っ黒いガキは異様な違和感があった。
(誰だ…?)
黒い癖っ毛。喪をあらわす黒い服。まるでガキらしくない。
無表情。
目があった。ばちっと音がしそうなほど強い視線がこちらを見て、ひどく驚いた顔をした。
「あ…」
これは、歳相応の幼い声。そばかすだらけの顔の中でぽかんと開いた口が何かを言いかけた。
「あぁ?」
思わず問い返せば、我ながらガラの悪い声がでた。ガキがすぐ横を風のようにすり抜けていく。目にも止まらない速さで。
 
 
 
 
「おつるさん」
「おや、マルコ。早かったね」
「あぁ……」
じいさんの家の台所では、義母のつるが忙しそうに立ち働いていた。久しぶりに見る小柄な姿は相変わらず背筋が伸びていて、つられてこちらも姿勢を正したくなる懐かしさだった。じいさんとの縁は自分よりもずっと長いはずで、じいさんは歳を食ったとはいえ直前までぴんしゃんしていたから、きっと悲しみも衝撃も深いはずだった。だけどそれも一旦棚上げしたのだろう。いつもの冷静な振る舞いに少し安堵する。
気にかかっていたのは先刻の庭にいたこどものことだ。おそらく親戚の誰かだとは思うのだが、なにせ義母と会うのすら久しぶりで、親類関係にはしばらく不義理をしていた自覚があるから、切り出すのも決まりが悪い。
「さっき、そこにガキがいたけどよい…。サッチのとこのあんなんだったかよい…?」
身内であれぐらいの歳のがいるのはあの男ぐらいのはずだ。しかし、あんなはじけた性格からあんな無表情なガキが生まれるものだろうか。
「サボじゃないよ、あの子は」
誰のことを指しているのかすぐに思い当たったのだろう。せわしなく動かしていた手を止めて、つるがふうと息を吐く。
「それがね…。あたしらもまあ困ってるのさ。どうしたもんだろうね」
いつも何事もきっぱりとした物言いをする人だから、迷うそぶりに驚いた。
「前もって言っておいてくれりゃ、少しはどうにかなっただろうに」
まったく頭が痛いよと嘆く。ますますの異常事態に焦る。この義母をして困惑させるなど並みの人間ができることではない。
「いったい何だってんだよい?」
「…それがねぇ。……あの子、お義父さんの隠し子らしくてねぇ」
「は?」
間抜けにも聞き返して、反芻してようやく頭が追いつく。
「じいさんの!?隠し子かよい!?」
七十を越えたじいさんに愛人がいたというのも驚きだが、さらに子どもをつくって、それを今の今まで誰も知らなかったというのが凄い。
「まあ、あの人のことだから、本当に自分の子なのか、得意のあれなのかはわからないんだけどねぇ」
「あァ…まあ考えてみりゃそうだよい…」
じいさんには昔から癖というか趣味というか厄介な運があって。それはつまりやたらと子どもを拾ってきてしまうということだ。犬の子も猫の子も拾うが、正真正銘人間の子も結構な頻度で拾う。かくいう義母自身がじいさんとの血の繋がりはなく、拾われっ子だったと聞いたことがある。
「拾うのは仕方ないさ、作ってしまったんならそれもいい。ただ、後のことも少しは考えてほしかったねぇ…」
老い先短いってわかってただろうに。じいさんにしてみれば「娘」の、容赦ない指摘に思わず苦笑いがでる。
「てことは、あれかい。あのガキがおつるさんの『弟』で、おれの『叔父』ってわけかい」
軽口のつもり言ったら、呆れたような目と深いため息が返ってきた。
「あんたも他人事みたいに呑気なことを言ってんじゃないよ」
そしてそれは後にまったくもって正しかったことが証明されたわけだが。
 
 
じいさんは、もともとおおらかというか破天荒というかスケールのでかい人だったから、驚きが過ぎてしまえば、いっそ「らしい」というか、最後の最後にさすがにやってくれたというか、まあつまり結局は悪くなど思いようがないのだ。
位牌に手を合わせ、大往生だったんじゃないかと内心で呟く。愛人がいたなら、七十にもなってガキをつくりたいぐらい愛せる女がいたということだ。拾ったのだとしても、ずっと頑として一人暮らしを貫いたじいさんが迎え入れたのなら、きっとその子どものことがたいそう気に入っていたのだろう。
遺影のじいさんは、いつものからかうような笑みを浮かべていて、面白そうにこちらを眺めているようだった。
 
おれの「叔父」にあたることになるその子どもの名前は「エース」といって、ほとんど人と口をきかない子どもだった。表情も乏しく、ガキらしい快活さがない。いつも庭でぼーっとしているか、部屋の隅で絵本を眺めているか、……おれの後をついてくるかだった。
(…なんでまた)
客用の座布団を運びながら、一歩後ろをついてくる子どもを振り返る。振り返っても、目が合わない。伏せた視線は廊下か足元かを見てるらしく、立ち止まれば一緒に止まる。歩きだせば歩きだす。お仕着せの黒い喪服を着て、髪はぼさぼさ、一文字に結んだ口は何かを話しかけてくるわけではない。
自分が女子どもに好かれるような顔じゃないのは三十路男の経験上よくわかってるから、この子どもがなぜついてくるのか謎だった。まったくもって懐かれるおぼえはないし、この無愛想にくっついてくる様子を懐いていると表現して良いものか。
 
もっとも、その謎はすぐに解けた。否、おそらくたぶん、解けた。
じいさんの部屋の隅におそらくこの子どものものらしい荷物がまとめてあって、その上にちょこんとそれはあったらしい。見つけたのは、従弟のサッチの子どもで、サボという六つの、ちょうどエースと同じくらいのクソガキだ。それを嬉しげに振り回して家中を走っていたところを見たときの、エースの反応がすごかった。突然相手に跳びかかったと思ったら、あっという間に馬乗りになってそれを奪い返していた。当然大声で泣きだしたサボに慌てて大人たちが駆けつけると、エースは取り返した青い鳥のぬいぐるみをしっかりと抱えて、今にも泣きそうな顔で、黙って仁王立ちしていた。両手に座布団を抱えていたため、止めることもできずに一部始終を目撃してしまったため、駆けつけた大人たちがエースを詰問しようとするのを慌てて止めに入る。幸いなことに従弟のサッチは基本おちゃらけているが事の理非はわかる人間なので、事の顛末をすべて聞くと、泣き喚く自らの息子の頭に「おまえが悪い」と拳固を落とした。それだけでサボもぐっと黙った。
やれやれと解散する大人たちの真ん中でエースは最初から最後までひとことの弁解も言い訳もしなかった。
 
「…おまえに顔が似てんな」
「…似てねぇよい」
騒動の発端になった青い鳥のぬいぐるみは、ぬいぐるみと呼ぶには相当に手の込んだものだった。中身は綿ではなくもっとしっかりした材質のものが詰まっている感触と重さがある。羽根をかたどる布の手触りは素人目にも高級感があるし、一言で青い鳥と言っても均一な青さではない。頭には黄色のふわふわしたとさかがくっついていてグラデーションのように青に変わっていく。本体も複雑な濃淡のある毛皮で羽根の陰影を表現しているらしい。長い尾羽は素材を変えてひらひらと流れる。嘴と脚は革素材の精巧な細工。目は見るからにプラスチックではないグラスアイだ。
そしてその鳥がどうも自分に似ているらしい。
「いや似てるだろう。頭んとこだけ金色だし目も眠そうに細いし青いし、おまえの口ってでかいし厚いから嘴みたいだし」
「……」
結局あれからエースはその青い鳥のぬいぐるみを離そうとせず、今も小脇に抱えたまま眠ってしまった。ヤンキー座りでしゃがみこんだサッチが、時代遅れのリーゼントを揺らして覗きこむ。畳の上で丸くなって眠る姿は歳相応の幼いものだが、この歳のガキがぬいぐるみに執着するのは少し幼すぎる気もする。しかし裏を返せばそれだけ大切なものだということだ。
「おー大事そうに抱えてるなぁ」
「すごい剣幕だったからねい」
もし本当に、この鳥に似ているということでエースが自分にくっついているのなら、何とも憮然とする理由ではある。しかしじいさんが亡くなった今、それが少しでもこの子どものよすがになるのなら仕方ないのかもしれない。
そもそも、じいさんが亡くなったということを、この子どもはわかっているのだろうか。義母のつるはまっとうな人間だから、子どもといえど包み隠さず何もかも伝えただろう。しかしいったい自分が六歳のときに「死」の意味を理解していただろうか。
(…わかってなかった気がするよい)
眠りこける子どもに毛布をかけて、離れるのも不憫で傍らでビールの缶をあける。笑うじいさんの遺影を眺めながら、ぼんやりとじいさんならどう伝えただろうかと思う。あいにく応えなどありはしなかったけれど。
 
 
 
じいさんの葬儀は大勢の人が訪れてそれはにぎやかなものになった。たくさんの見知らぬ人の中で心細いのか、エースは朝からずっと後ろをくっついて離れない。いよいよじいさんとの最後の別れの時間が来て、大人たちは泣きながらじいさんの棺に花や、じいさんの好きな食べ物や好きな煙草を入れていく。その周りで幼いサボが大人にじゃれついては「おじいちゃんうごかないよ」「ねぇねぇなんでうごかないの!」と騒いでいる。たぶんそれが普通なのだろう。
「ほら、おまえもじいさんにお別れしろよい」
花を渡して促す。たとえ意味がわからなかったとしても、自分の親との最期の別れなのだ。せめて花を手向けさせてやりたかった。それはじいさんにとっても。
なのに子どもは花を受け取ろうとしなかった。幼い眉間を寄せていやいやと首をふる。
「エース」
たしなめようとした手を振り切ってふいに部屋を飛び出していく。ぶつかられそうになった大人が眉をひそめる。
「おいっ!エース!」
追いかける前に帰ってきたその胸には、昨日の青い鳥が抱えられていた。まっすぐに棺まで駆け寄って、白い花で囲まれたじいさんの頬の近くに、寄りそうように鳥を置いた。
…棺には、燃えにくいものを入れてはいけないとか。そういうことを言い出しそうな無神経な大人を威嚇して遠ざける。
六歳の子どもが、誰にも触られたくないくらい大事なものを、誰かに捧げるという時に。
「…それ、いいのかよい」
小さくうなずくエースは、それがもう返って来ないと、わかっているのかわかっていないのか。それでもその決意を無下にすることなどできるはずがなかった。
「そうだな…。じいさんもきっと喜ぶよい…」
手を伸ばして、エースがじいさんの真っ白で立派なひげにふれる。穏やかに閉じた瞼と笑いじわの浮いたまなじりにふれる。まるで眠るひとを起こさまいとしているように、そっと。
 
「もう、おきないの?」
 
初めて、まともに話すのを聞いた。
そしてその言葉はこのうえなく正しいものだった。
驚いて、同時に安堵する。
エースはわかっていた。青い鳥がもう返ってこないことも。じいさんの目が開くことは、もう二度とないことも。
 
「ああ、もう起きない」
 
そう応えたら、どうしようもなく悲しくなった。六歳の子どもと並んで、少し、泣いた。
 
 
葬儀が終わると、あとかたづけもそこそこに、近親者の話し合いが始まった。エースの今後についてだ。実を言うとそのことに関してはあんまり心配していなかった。なにせ、じいさんの親類縁者というだけあって、世話好きの人間が多い。子どもの一人ぐらいなんとかなると高を括っていた。
予想通り、一番手に名乗りを挙げたのは、義父であるガープだった。
「うちがひきとる!!そして立派な警官に育てるんじゃ!!」
「馬鹿なことをお言いじゃないよ」
大音声での宣言を冷ややかな声が叩き落とした。まさにつるの一声である。
「あんたもわたしもろくすっぽ家にいないというのに、いったいどこの誰が六歳の子どもにまともについてやれるっていうんだい」
ガープとつるは二人とも警察庁の要職にあり、半端なく忙しい。家事もすべて手伝いを入れているようなありさまだ。
「自分がかまいたいってだけで軽々しく子どもの将来を決めるんじゃないよ」
ぐうの音もでないガープに少しだけ同情する。実際に幼少時代ほとんど家に居なかった義父を思えば、その同情もすぐに消え失せるものではあるが。
「あー…わたしが預かろうか」
次に手を挙げたのは、検事をやっている叔父で、専業主婦の奥さんがいる。融通の利かないおっさんだが、まともな常識人ではある。だがそれもつるは一刀のもとに切り捨てた。
「あんたは地方まわり中だろう。これから小学校にあがろうって子を転々と引っ越させるつもりかい。それにあんたは人の子どもを引き取る前に、とっとと自分の子どもをつくりな」
こちらも轟沈だ。容赦の欠片もない。
「フッフッフ。ならおれん所にくればいい。女もいる。金もある。引っ越しもねぇ。しゃべれねぇガキひとり見るのにわけはねぇ」
「…ヤクザをやってて何をお言いだい。子どもを預けていい環境じゃないね」
「フフ、あんたならそう言うだろうなァ」
「あ~…なら、しょうがねぇ、おれがひきとろうじゃないの」
「あんたは独り身のうえ、住所不定の根なし草じゃないか。自転車の荷台に子どもをのっけて放浪する気かい」
「おれは子どもは好かん」
「あんたには期待してないさ。ここにいるだけで驚きだよ」
ぐるりと一巡したつるの目がサッチに止まる。
「…あんたんとこは、まだ喧嘩してんのかい」
拝むようにサッチが手を合わせて、頭を下げる。サッチは先日かみさんに逃げられてまだ喧嘩している最中らしい。その上でもう一人子どもを預かるのはさすがに無理だろう。
やれやれと首を振って、つるはため息をつく。
「まったくろくな人間がいないねここには」
確かにこうやって見てみると何と言うか、駄目な人間ばかりだ。六歳の子どもを預かるにはいささか自由が過ぎるというか、教育に良くないというか。
ちらりとつると目が合って、にわかに台所で言われた警告を思い出す。
「引き取れる人間がいなけりゃ、施設の方がマシかもしれないね」
いっそ冷酷なほどに言い放つ。沸き起こるブーイングを一喝で黙らせる。
「ならあんたらはこの子のために今言ったことを変えられるのかい」
ああ、まったくもって女は強い。義母は良くわかっているわけだ。検事の叔父が手を挙げようと、世話をするのは赤の他人のその奥さんで。ガープがどれほど駄々をこねようと、彼女は自分の仕事を疎かにする気は一切ないのだと。
おつるさんのことは、もちろん嫌いじゃないし、むしろ尊敬しているが、こうやって退路を塞いで人を操ろうとするところは正直性質が悪いと思う。
「施設になんかやらねぇよい」
サッチがくるりと目を丸くする。意外という表情に腹が立つ。
「職がまっとうで、所在が決まっていて、引っ越しがなくて、…面倒見てくれる人間はいねぇが、代わりに自分の面倒くらいは見れる。他人よりはましだろうよい」
確かにまあ、自分がまず、独り身の三十男で。職こそは比較的まっとうだが、先に結婚のひとつもしろと言われてもおかしくはないはずで。
立ちあがる。煮詰まった議論を、いや、一人の参謀にとっては結論の決まった議論をこれ以上長引かせるつもりはないという意思表示をこめて。
それに、そもそもエースの意志を聞いておかないと駄目だと思った。
 
「エース」
 
庭の隅っこで土をいじっている子どもに呼びかける。大人の会話を聞いているのかいないのか。いや、きっとわかっているだろう。勘のいい子どもだ。じいさんが最期に愛した。誰にも何にも知らせることなく。
 
「エース、おれんちに来るかよい」
 
子どもの真っ黒い目がおれを見る。じいさんも、青い鳥もいない。誰も知らない大人の真ん中で、泣きも喚きもしない目だった。愛想のかけらもないへの字口を緩めもせず。
そばかすの子どもはおれの元に駆け寄った。それだけで十分だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
独り暮らしの男の家に予備の布団などという洒落たものは存在しない。電車の中で眠りこんでしまった子どもを抱え、へとへとになって家に辿りついて、着替えもそこそこにひとつ布団にもぐりこむ。
 
 
起きた翌朝には世界は何もかもその色を変えてしまっていた。
 
 
 
自慢にはならないが寝起きはいいほうじゃない。
それでも朝も早くから小さい手でゆさゆさと揺すられて、よく事態を思い出せない脳みそで何事かと固い目だけを開ければ、その目の前で小さな子どもが開口一番のたまった。
「なぁおじさん。おなかへった」
「だ…っ、お…っ」
誰がおじさんだこのクソガキ。眠気も吹き飛んで、やり場のない憤りに朝も早くから身を震わす。確かに三十歳になれば六歳から見れば「おじさん」に違いない。否、この年頃の子どもが年長の人間に向かって話しかける言葉としてはまったくもって正しいのではあるが。面と向かって言われることのない独り身の立場に長く甘えてきただけに、その破壊力は尋常ではない。
「どっちかてぇとおまえさんの方が『おじ』さんだよい」
空しい反論をして余計に空しくなる。困ったように首をかしげた子どもに、思わず頭を抱えた。もしかしておつるさんに乗せられて、いろいろはやまったのかもしれない。
 
朝飯はあんまり食べるほうじゃない。
それでも小さな子どもがいるのだからと、とりあえず冷蔵庫の中にあった玉子を焼く。米は昨夜かろうじてしかけておいてあったから、それといつからあるかわからない海苔と。本当は味噌汁か何かあった方がいいのだろうが、あいにく味噌はあれども具になるものがない。
ありあわせの朝食をエースは丁寧にいただきますと言って、文句も言わずにもぐもぐと食べる。寝巻がなかったから、でかめのTシャツを着せていて、女の子のワンピースみたいになっている。買い物に行かないといけない。近所の量販店をあれこれ思い浮かべていたら、エースが茶碗を持ったまま見上げてくる。
「……」
「おかわりかよい」
こくりと頷く。本当に口数の少ない子どもだ。それとも遠慮しているのだろうか。自分が六歳のときに遠慮なんて感情をもっていたのかどうかすら思い出せなくて戸惑う。
「メシはあるが…おかずはもうねぇよい」
米だけ食わせていいものか。そんな判断すらつきかねる。なんかもっとこう野菜じみたものとかあったほうがいいんじゃないかとか。
「……おにぎりにするから」
おにぎり。論点がずれているような気がして問い返す。
「具もねぇぞ」
「しお」
塩。それでいいのかとも思うが、まあ確かに何もないよりましだろう。てっきりおにぎりをつくれということなのかと思ったら、茶碗によそった飯と水道で濡らした手と小瓶の塩で自分で作り始める。小さい手でぎゅっぎゅっとなかなか堂に入った仕草で、つまり、いつも朝こうやって食べていたのだろうとうかがわせる。まあじいさんも自分で飯をつくるような人間ではなかったから、きっと本当にそうだったのだろう。
そうやって一生懸命握った飯を、エースがふいと自然にこっちに寄こす。
「じいちゃん、あげる」
噛んでいた飯を吹き出しかけた。エースもすぐに気付いて焦ったように言いつのる。
「まちがえた。マルコ、あげる」
照れ隠しと言うか、間違いをごまかすように、ぐいぐいと口元におにぎりを押し付けられ、慌てて口を開ける。ご飯粒のたくさんついた子どもの手に食いつきながら、どっちもおかしくて、なのにどう直してやればいいのかわからない。
エースにとってじいさんは本当は「父さん」なり「父ちゃん」だろうとか。年長者を呼ぶときは、呼び捨てじゃなくて、もうちょっと何か別の呼び方があるだろうとか。だがしかし、「おじさん」と呼ばれるのは業腹で、「おにいさん」だの「にいちゃん」だのは想像するだに座りが悪い。「マルコさん」と「さん」付でもさせればいいのだろうが、そんな柄でもないと思ってしまう。そもそもこれから一緒に暮らすのだから、いちいち「さん」付をさせてたら気が詰まる。
要はつまり、今さらながら互いを表す「正しい」言葉がないということだった。エースにとって「マルコ」は、だから「マルコ」としか呼びようがないのだ。
もぐもぐと美味そうにも不味そうにも見えない顔で、自分のつくった握り飯を食べる子どもを見ながら、いまさらながら前途多難だと自覚した。
 
量販店での買い物も好きなほうじゃない。
それでも当座に必要なものを買いそろえるべく、駅前のひと通り何でもそろうショッピングモールに連れだって出かける。エースはそれなりに楽しいのか、いつもは伏せがちの目を大きく開いて、新しい街に興味津津といった風情だ。
日曜の駅前は人も多い。ことにターミナル駅であるここは、最近開発も進み大型の商業施設がいくつも集まっていて、家族連れも多い。まわりが込み始めたなと感じたとき、手に温かいものが触れた。横を歩いていたエースを見下ろすと、小さな手を伸ばして、指につかまっている。
「て、つながないとあぶないんだ」
まるで、おれの方がはぐれそうな真剣な顔だった。笑おうとして、あいまいに消える。
じいさんの家にあったエースの荷物は紙袋ひとつであんまりにも少なかった。替えの服が数枚と、身の回りのもの、歯ブラシや絵本なんかがいくつか。だから多分どこかに母親がいて大半の荷物はそこにあるのだろうという説と、拾われてきたのが比較的最近で物が少ないのだろうという説の二つが成り立つ。どちらなのか当人にはまだ聞けない。いずれにしても相応に複雑な事情があるのだろう。
でもどちらにしろ、エースが無口なのも、時折しゃべる言葉がけっこう大人びているのも、後ろを一生懸命ついてきてはぐれるのを恐れるのも、根っこは一緒なのだろう。
つないだ手を軽く握り返す。折れそうに細い子どもの指がひどく頼りなかった。
 
安さと無難なセンスに定評のある衣料品ブランドで、カートまで持ち出して買い物する日が来るとは正直思ってもみなかった。
「好きなもん選べよい」
子どもの服なんざ正直どう選んでいいかすらわからない。エースが選んでもってくる服を適当にカゴに放り込もうとして。
「おまえ、身長何センチだい」
「……しらない」
「そりゃそーか…」
サイズの表記もよくわからないから、着ている服のすそをめくってサイズを確かめる。エースは六歳としては大きい方なのか小さい方なのか、サボと比べてもたいして違いはなかったし、たぶん普通なのだろう。うろ覚えの聞きかじりで確か、すぐにでかくなるから大きめを買っておいた方がいいはずとワンサイズ大きいものにとりかえる。何というか、かなり手探りだ。
「あと何だ…」
「パジャマ、パンツ、シャツ、くつした」
「ああ…」
しっかりもんで助かるよい。まるで駄目な大人になった気分で天を仰ぐ。
季節は秋だが、防寒具はもう少し先でも大丈夫だろう。靴ももう一足ぐらい替えがあった方がいいのか。子ども服コーナーをぐるぐると回りながら買い忘れがないか考える。
「…かばん」
エースが青い肩かけの鞄を指差す。あの鳥の色だなと思いながら聞き返す。
「?何でかばん?」
「ほいくえんにもっていくのがないから」
「…っっ!!」
保育園。
(しくじったよい……)
保育園。すっかり考えていなかった。明日は月曜で、それはつまり会社に行くためにエースをどこかに預けなければいけないということだ。そんな基本的なことを見落としていたことに愕然とする。まさに駄目な大人以外何者でもない。とりあえず帰ってサッチに電話だと思い直す。サボも普段は保育園だから、何かしら有効な知識を持っているはずだ。
階下の日常雑貨の店で布団とこまごましたものを買って、両手に荷物を抱えて帰宅する。途中で眠いと言いだしたエースをどうにか励まして歩かせる。食料品の買いだしはあらためて夕方だ。いっそ車でも買ってしまおうかとも思う。
 
帰れば片付けもそこそこにサッチに電話をかける。日曜、嫁に逃げられた男は家で息子の相手をしていたらしい。受話器の向こうで子どもの騒ぐ声が聞こえる。
「おう、マルコ。昨日はお疲れさん」
「…サッチ、ちょいと聞きてェことがあるんだが」
「なんだ、もうギブアップか?」
「阿呆ぬかせ。いちいちうるせぇ野郎だよい。人が下手にでてるときくらい大人しく聞きやがれ」
「ハハっ。おまえこそ人にモノ頼む時ぐらい悪態つくんじゃねぇよ」
サッチとは歳が近いし比較的近所に住んでいることもあって、従弟というより悪友だ。向こうが早々に結婚してガキをつくってから少し遠のいていたが、まさかこんなふうに関わる日が来るとは思ってもいなかった。
「あー保育園な…。すぐ入れるわけじゃねぇぞ。今はどこもいっぱいだしな…」
「…どうにかできねぇのか」
「とりあえず市役所相談しろ。あー…日曜は無理か。あとは緊急一時保育ってのがあるはずだからネットで調べてみろ」
後ろの方でサボが騒ぐ声がでかくなる。何やらエースと話すと主張しているらしい。おまえら喧嘩してたんじゃなかったのかよいと思いながらも、エースに携帯を渡したら素直に受け取った。でかい声で話しかけてくるサボにうんうんとうなずいている。六歳児の友誼というのも不思議なものだ。
その間にパソコンを立ち上げて、「緊急一時保育」で検索する。どうやら、名前のとおり、保護者の急な病気などの緊急時に預かってくれる措置らしい。一時というだけあって七日以内や十日以内というところも多い。場所も家の近所にあるものや、会社の近くにあるもの、駅の近くにあるものとさまざま。時間も十七時までものから二十四時間融通がきくものもある。
とりあえず、行けそうなところは三か所だ。
A保育園…自宅の近所だけど十八時半で終わり。
B保育園…会社の近所で十九時半まで。ただし、十日が限度。
C保育園…会社よりさらに遠いが二十四時間。
(帯に短しって言ったら……)
世間のみなさまに怒られるのだろうか。一番良さそうなのはB保育園のようだが、果たして仕事を十九時半までに終えることができるのか。
(……無理だよい)
ただでさえ有給をとってしまったし、忙しい時期だ。いつも会社を出るのは九時を過ぎる。そもそも十日かそこらで代わりの保育園は見つかるのだろうか。ただでさえ今、社会問題として保育所不足の深刻化が言われているというのに。だからと言って考えすぎても明確な答えは出ない。そのうち昼飯の時間が来て、エースが「おなかへった」と主張する。大人なら一食程度抜いても死にはしないが、子どもはそうもいかない。そういう意味ではまったく容赦ない。
もう一度でかけて食料品を買い込む。昼飯は外食にしたが、あんまり外食ばっかりってのも子どもには良くないんだろうなと考えたりし始めたら本当にきりがない。自炊はできないわけではないから、調味料やらももう一度買い直す。
さんざん迷って保育園はCにした。距離は遠いが今は時間の融通がきくほうがいい。地下鉄でまず会社を通り越して保育園まで行く。そしてエースを預けてから逆戻りして会社へ向かう。通勤時間は一気に倍に延びるが仕方がない。新しく買った布団を二人で敷いて、新しく買った寝巻を着せて、いつもより一時間早い目覚ましを入念にかける。
前途多難にも程があるが、もうやるしかないのだ。



つづく
 
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