翌朝、いつもよりずっと早い目覚ましが鳴った時、おれの頭はまだ完全に夢の中で。何だか猫でも抱えているようなひどくあいまいな感覚を、ゆさゆさと揺らす手が追い散らす。
「マルコ、おきて」
夢の尻尾を捕まえ損ねて目を覚ます。半分も開かない瞼の前にはこちらもさすがに眠そうなエースの鳥の巣がある。
「めざまし、なった」
「……あァ、…すまねぇよい」
ぼんやりとした頭で夢を反芻する。なんだかぬくいかたまりの感触だけが残っている。ふと敷布に手をつけば、少しだけ自分のものではない体温がある、ような気がする。エースの布団は昨日買って、眠るときには確かにそっちに入ったが。
「……エース、おまえ、こっちにいたかい?」
半ば寝ぼけて思いついたままを口にする。子どもは既に昨日買った服に着替え始めていて、問いには答えず、服を着てからついたままのタグに気付いている。
「…これとって」
「はいよい」
憮然とする子どもがしっかりしているようで幼くて、朝一番に子ども服のタグをとりながら、ようやく起きだした頭で、そんなことをしている自分に苦笑いした。
昨日より少しましな朝食をとり、忙しない朝の支度をして揃って家を出る。最寄りの地下鉄の駅で、今日の予定をおさらいする。
「エース、今日からの保育園はずっと行くところじゃねぇよい」
子どもを朝の地下鉄に乗せる心配もあって、少しでも安心するようにできるだけ説明をする。
「正式に通うところが決まるまでの、仮のところだよい」
正式に、近くの保育園に決まるまで、と思って言ったのだが、
「かりって何?せーしきって?」
さすがに六歳にはわかりかねたらしい。いったいこの年頃というものはどれくらいものがわかって、どこからわからないのか、いちいちこうして確かめるのももどかしい。
しかし、朝の地下鉄に乗ってしまえば、正直それどころじゃなくなった。わかっていたが混んでいる。さらにエースの背丈は大人の半分もないから、完全に人に埋もれてしまう。大人の方も下手すると足元に居るのに気付かない。気付けば、なんでこんなとこに子どもがという顔をする。
「だいじょうぶかよい」
「うん…」
おれの足にしがみつくようなかっこうで、エースは大人の間でもみくちゃにされている。電車が揺れるたびにぎゅっとしがみつく腕に力が入る。
人込みの中ではしゃがんで様子をうかがうことすらできないから、せめて安心させるように頭に手を置けば「だいじょうぶ…」とけなげに答える。
会社のある駅を通り過ぎて、ようやく保育園のある駅につく。エースの手を引いて乗客をかきわけるのも難しそうで、いっそとばかりに抱きあげる。この歳の子どもの体重はけっこうしっかりした重さで、一生懸命首にかじりつくエースを片腕に、鞄を片手に、好奇の視線を受けながら降車する。まあ、三十男が子どもを抱いて通勤電車に乗ってりゃ、誰だって悪気なく見てしまう。気に障るほどのものではない。
問題は駅につけばもう時間になっていることで。
「遅刻する。走るよい」
一度降ろした子どもを今度は負ぶって駅構内を走り出す。自分の鞄ととエースのかばんを首の前で持たせて、人の目なぞ気にしてたらしょうがない。場違いに学生のときに鍛えておいて良かったとちらりと思う。
そうかと思えば、保育園の建物が見え始めたところで背中のエースが抗議の声をあげた。「あっ!おろして!!」
「ん?なんだよい」
背中で暴れ出す子どもを降ろす。保育園はもうすぐで、みるからに明るい建物の屋根と、周りには数人の母親に連れられたガキどもがいる。誰も手をつなぎこそすれ、おんぶをしてもらっているような子どもはさすがにいない。
「なんだ?ひとに見られるのはハズカシイのかよい」
なかなかに意外な反応で、思わずからかえば、少し顔を赤くしてずんずんと前を歩く。それでも手をつないでいるのは御愛嬌だ。
短い距離を手をつないで歩く。カラフルな絵のついた柵を横目に通り過ぎ、ここだけは最新の鍵のついた門をあけて、保育園の敷地に入る。
大人になってから初めて踏み込む保育園というものは、おれのいつもの生活圏とはまったく別の世界で、ただただ衝撃だった。パステルカラーの室内は色とりどりの色紙で装飾され、空気は失礼な話だがどこか乳臭いような小便くさいような、要は子どもの匂いだ。甲高く何を言ってるのか聞き取れない声がわいわいぎゃあぎゃあと騒がしく、そこに存在するのは母親らしき女と、保育士らしい女とガキとガキとガキ。
(………ものすごく浮いてるよい)
かろうじて男の保育士もいるが、見るからに若くピンクのエプロンをしていてつねににこにことしている。正直同じ生物とは思えない。
とにもかくにも手続きを終えて、指定された教室(りす組だった)にエースを預ける。担任と言う保育士は穏やかな四十代くらいの女性で、初日でもあるので深々と頭をさげる。
「よろしくお願いします」
「はい、いってらっしゃい」
そう言われれば気になるのは時間だ。腕時計を見ればぎりぎりの時間だった。むしろ、駅まで走らなければ間に合わない。身を翻しかけて、ようやく押し黙ったエースの表情に気付く。
足を踏ん張った仁王立ち。ぐっと歯をかみしめて。いつも三白眼気味な目をいっぱいに開いて。幼い眉根をぎゅっと寄せて。まるで怒っているようなそれが、そうではないのだともう知っている。
(…走っても遅刻ぎりぎりで)
それでもこれをほったらかしていたら、きっと何かに失格するのだろう。
「そんな顔すんなよい」
しゃがみこんで視線をあわせる。
「あー…明るいうちは無理だけど、ちゃんと迎えにくる。約束するよい」
知ってんのかよいと少しだけ不安になったが、小指を差し出す。指きりげんまん。
「ウソついたら、針せんぼん、ぜったい飲んでやるよい」
小さい小指をからめてきた子どもに下手クソに歌ってやる。正確なメロディーなどそもそも忘れてしまった。
「指きった」
歌いきって指を離したら、幼い顔がわずかにはにかんでいた。
「うたちがうよ」
「エース」
くせっけをぐしゃぐしゃとかき回す。
「待ってろよい」
真っ黒い瞳が真剣におれを見て、わずかに頷く。
今度こそ立ちあがる。振りかえり振りかえり行けば、エースは担任に連れられて大人しく教室に入っていく。その姿が見えなくなってからようやく走り出した。
本格的に駅までを疾走しながら、頭をちらつくのさっきのエースの表情だった。あんまりあの子どもがしっかりしていて、悲しいとも辛いとも言わないから、すっかり気がつかなかった。いや、それも言い訳だ。保育園を探したりすることでいっぱいで、エースの気持ちまで気が回らなかった。大人のつごうも、じいさんの寿命もあいつにとっては知ったこっちゃない話で。
ただおいてけぼりにされたっていう、寂しい事実。
(…おれにも、置いていかれると思ったかよい)
なまじ大人びている子どもだから、その不安も口に出せなかったとのだろうかと思うと、尚更に不憫だった。そうして思う。二度とあんな思いをさせるのはごめんだと。
地下鉄に滑り込んで、急な運動で切れる息を整えて、ゆるめていたネクタイも整える。季節は秋とは言え、スーツで走るのはさすがに暑い。周囲の不審に耐えながら何とか始業時刻には会社に辿りつく。
とはいえ、正直その一日は仕事が手につかなかった。何をやっていても、保育園の子どものことが気になる。仕事に影響がでたり周囲に気取られるようなへまはしていないはずだが、ことあるごとに、「飯はちゃんと食っているのか」「他のガキにいじめられてないか」「馴染めなくて泣いていないか」と不安ばかりがもたげる。早く行ってやらなければと思いながらも、ようやく会社をでた時には夜の九時半を過ぎていた。
そこからさらに保育園のある駅まで地下鉄に乗り、駅からの道を走る。走りやすいようにと既にジャケットもネクタイも外している。約束したのだから早くいってやらないとという焦りもあったし、子どもをこんな時間まで人に預けている罪悪感もあった。
保育園についたのは十時過ぎ、すっかり保育士の顔ぶれの入れ替わった保育園で、起きてきたエースがおれの顔を見てほっとするのがわかる。それだけで走ってきたかいがあるというものだ。
エースが自分のかばんをとりにいった間に、夜の担当らしき保育士がつと近寄ってきた。
「おかえりなさい」
違和感の残る挨拶だが、ここではそういうものらしい。笑顔で言われて、あいまいにうなずく。
「エース君、最初は大人しくて少し心配でしたが、とてもしっかりしていますね」
「そうですか。そりゃよかった」
その笑顔のまま、その若い先生は少し声を抑えた。
「ただ、ちょっとだけ、…初めてなので無理ないのですが、お友達とうまくなじめないところがあって」
「……喧嘩でも?」
「いえ、……ただ、すこし頑固なところがあるようですから、おとうさん、気をつけてあげてくださいね」
エースが戻ってきたのでそこで会話は終わったが、話の内容よりも、「おとうさん」と言われた方が地味に衝撃だった。まあそれこそ他に言いようもないのだろうが。
エースといっしょに「おせわになりました」と頭を下げる。先生が「さよならー」と手をふり、エースは「先生、さよなら」とかくりとお辞儀する。なかなかに躾がいい仕草だった。
眠そうなエースを再び負ぶって駅までもどり、幸いなことに空いている席に身を投げ出すようにして座る。膝の上でエースは完全に眠っていて、汗でよれたシャツと、しわになったジャケットと邪魔にしか思えない鞄を抱えて、身も世もなく脱力する。
さらに、頭には先ほど保育園の先生から言われたことがぐるぐると回っている。友達となじめない、頑固、それはオブラートで包んではいたが、どう考えても肯定的な評価ではない。
どちらにしろ、考えるには疲れ過ぎていた。夜も遅く、これから帰って、風呂に入れて自分は飯を食って明日の準備をしてと思えば気が遠くなる。そしてこれが明日も明後日も続くのだ。
(どっちももたねぇよい)
とりあえず面倒くさい思考は全部棚上げして、明日の昼にでも鞄をショルダーに代えようと決意して、家までのわずかな時間をむさぼるように眠った。
通勤の鞄をショルダーに代えた。それまで愛用していた皮鞄からいきなり軽さと頑丈さが売りのブランドに代えたら、同僚から見当違いの心配をされた。
禁煙など欠片も考えたこともなかったはずなのに、家で吸えなくなったら途端に執着が薄れてきた。
独り暮らしの男の部屋からは、なんとなくほこりが消えて、散らかるものもこころもち隅の方に寄った。
代わりに増えてきたのは、今まで縁もなかった子どもの持ち物だ。絵本やスケッチブック、色鉛筆。エースのお気に入りは図鑑だ。一度買い与えてみたら、呆れるほどずっとそればかり見ている。ガキに定番の、動物や恐竜。乗り物や昆虫。そして、一番のお気に入りは鳥だ。エースがもっていた青い大きな鳥は、想像上の動物を形にしたものだから図鑑には載っていない。それでも、特に熱帯地域の色とりどりの大型の鳥たちをひとりで飽かず眺めている。時折スケッチブックにそれを描く。読めない字は聞きに来て、教えてやれば嬉しそうにはにかむ。このところ少しずつだけど、笑顔を見られるようになった。目つきがきついのも口がへの字なのもあいかわらずだが、笑えば不思議と愛嬌があった。
黙々と遊んでいるエースを横目に、休みの昼間にビールを空ける。考えてみれば、恋人らしきものでもできた日には、いったいどこに連れ込めばいいのやら。そもそも、子どもをほったらかしに朝帰りするわけにもいくまい。どうせ特定の人間を作る気などたいしてありはしないのにそんなことを考える。
それより目下の問題は保育園だ。市役所と相談したところ、そういう事情ならと、できる限りの希望は聞いてもらえるらしい。ならば後は場所を決めるだけなのだが。一週間通って出た結論は、とにかく今の遠さはきつい、ということだ。正直エースの生活リズムのためにも良くはないと思う。できれば朝の満員電車ものせたくない。そうなればおのずと選択肢は家の近くしかないのだが、なにぶんにも終わる時間が早すぎる。十八時半ということは、十七時半定時の現状、残業などできるわけがない。そして今の仕事の状況で残業なしなどありえない。
(どうするかねい…)
明日からはまた、エースを担いで保育園まで走る日々だ。緊急一時保育は何日までだっただろうか。早く決めなければいけないのに、決め手がない。つるにでも相談しようもんならガープが嬉々として乗り込んでくるだろうし、それはできることなら避けたい。サッチは自営業だから元よりこの手の苦労はない。
いっそ転職するかと考えて、食えなくなったら元も子もないと思いなおす。思い直して、別のひとつの可能性を思いつく。
それは最も現実的な案に思えた。もろもろの懸案は発生するとしても、少なくともエースにとっては一番いい。むしろ思いついてみれば、それしか解決策はないように思う。
(明日会社と話してみるか)
ひとまず結論づければ気が軽くなる。図鑑をもってきたエースにどれだと声をかける。何もかもがこの子どもを中心に回り始めていて、それを不快だとも不自由だとも思っていない自分がいることが、この上なく驚きだった。
次の日、いつものように全力疾走で保育園から出勤して、朝の業務がひととおり終わったた頃で上司をつかまえる。ちょいとお話がと切り出せば、一見柔和そうな上司は、その実、そうとう眼光鋭い目をゆっくり細めてみせた。正直肝の冷える光景ではある。
休憩スペースに連れ出され、コーヒーを奢らされながら(このおっさんはそういう人だ)単刀直入に伝えた。
「急で申し訳ないのですが、残業のない部署への異動をお願いしたいと考えていまして」
予想もしていなかったのだろう。虚を突かれて黙る上司にちょっとだけ留飲をさげる。
うちの会社は業界ではへそまがりで有名だが規模としては小さい。その分、人事権のある人間との距離は近い。端的に言えば、この上司がうんと言えば、決まったも同然だった。
「なぜだい?」
穏やかに面白そうに、当然至極の問いを投げられる。少しだけ頭の中で言うことを反芻する。自分の選択をうまく人に伝えられるだろうかと心配になる。たぶんよくあることではないはずだし、自分でも、ひと月前はかけらも考えもしなかったことだからだ。
「レイリーさん。…実は先日、こどもをひとりひきとったんです…」
ひと通りの経緯を聞いて、上司はふむとうなずいた。実をいうと、義父のガープと上司のレイリーは知己であるらしい。向こうも驚いていたから縁故で採用されたわけではないらしいが、まったく世間とは狭いものだ。とはいえ、だからこそ、レイリーはおれの周辺の事情をいくぶんか知っている。つまり、まともな人間がろくにいないということを、だ。「……そうか、なるほどそんなことがあったのか」
「いろいろ考えましたが、今の職場では正直ひとりで子育てするのは無理かと」
「ふむ、まあそうだろうな…」
実際に、女でも子育てをしながら働いている者はない。今までそんなことを気にかけたことなどなかったが、定時などあってなきがごとし、納期前には泊りも当たり前の職場で子持ちが働ける道理もない。
「……個人的には非常に残念だ」
「すみません…」
「前期は君が開拓してくれた顧客のおかげで会社全体が潤った」
「おれだけのちからじゃないんで」
「いやいや、もっと責任のある立場にと、君を推す人も多くいる」
そう言われれば悪い気もしないが、苦笑するにとどめた。仕事にプライドはあるが、元よりたいして出世やなんかに興味があるわけでもない。どこへ行っても、そこでなにかしらの楽しみをみつけだす自信はある。
「ふむ。物理的なことが原因では説得し辛いな。ましてや生物が相手では分が悪い。」
意外にあっさりと降りた承諾に肩すかしをくらう。穏やかな物腰に反して厳しい人だから、退職をほのめかされるくらいはあるかと覚悟していたのだ。
「社長には私から話をしておこう。なんとかしてもらうようにするさ」
「すみません。ありがとうございます」
「…いくつといったかな?そのこども」
「六歳です」
「…ふむ。好みに育てるには頃合いだな。せいぜい道だけは誤るなよ」
口にしていた最後のコーヒーを吹き出す。気管に入ったそれにむせながら、せめてもと反論する。
「オスガキだって言ったでしょうが!!」
「なに、おまえさんが他人に関わろうとすることじたいが珍しいんだ。慣れないんだから加減を間違えるなということさ」
呵々と笑いながら去る上司は、さっそく社長のところに行ってくれるらしい。さすがにそれ以上の暴言をはけない。人を見透かすような言動はいつものことだが、そんなふうに思われていたとは知らなかった。しかし、濡れ衣も甚だしいというべきか、どこをどうやったらそんな発想になるかと問うべきか、冗談にしては性質が悪すぎるというべきか。
ともあれ、気にした方が負けだと割り切る。
(ともかくひとつ懸案は片付いた)
あとはそれを部下や同僚たちにどう伝えるかという問題だけだ。
二日後には異動の辞令がでた。
おれが新たに配属されたのは物流部門で、希望通り残業は、ほぼ、ない。とはいえ大半は作業員に交じっての肉体労働だ。今まではパートとアルバイトだけで回していた仕事を、社員を入れて仕組みを考えさせることで効率化したいらしい。半ば予想していたので、動揺はない。むしろ思ったより面白そうな課題だとさえ思った。
動揺したのは、同じ部署で働いて仲間たちだ。ただでさえ、去年獲得した売上が今年の予算に乗っかっていて、予算達成は厳しい状況だ。その上さらに戦力がひとり、自分の都合で抜けるとなれば、文句のひとつも言いたくなるだろう。
「隠し子を認知する気になったってのは本気かい?」
さっそく絡んできた年上の部下を引き剥がす。
「隠す意味がねぇだろい。この忙しい時期にすまねぇとは思ってるよい」
「…マルコ、本気なのか。何もおまえがひきとることはないんじゃないのか。親戚や…なんかがいるだろう?」
「うちは碌な家系じゃなくてな。まともな人間がおれしかいねぇんだよい」
「おまえさんが最も良識的だとはなかなかに面白そうな家系だ。しかし、いくらなんでも嫁の来手もない独身男に子育ては無理だろう」
「うるせぇよい。今は男も子育ての時代だろい。んなこと言ってやがるからてめえも独り身なんだろうが」
「マルコ、でも正直あんたに抜けられるとうちはきついよ。中国語はあんたが一番話せるし、先方もあんたじゃないと納得しないかもしれないし。今は保育園も遅くまでやっているんだろ。あんたばっかり犠牲にならなくたっていいじゃないか」
「……悪ィとは思ってるよい。だけど、そもそもおれがいねぇと回らないようじゃ組織としてはマズイだろい。このことがなかったとしたって…おれがなんかのトラブルで急にいなくなったらどうする気だよい」
「そりゃそうだけど…」
不満そうに黙る若い部下に正論を言いつつも、自分だってついこの間まではこんなことになるとは思っていなかったし、自分がいなくなった後のことなどたいして考えていなかったのだと思い知る。
「できるだけ引き継ぐし、べつに社内にいなくなるわけじゃねぇよい」
本当は飲みにでも連れて行って不満を吐き出させた方がいいのだろう。一見軽口に見せかけている同輩たちも、内心はここで戦線離脱することを何とも思わないはずがない。しかし、エースをひとりにするわけにはいかないから夜は出歩けない。そのことを、おれはもう選んでしまっていた。
(『犠牲』ねぇ…)
例えば女が子どもを産んで、仕事を辞めていく。仕方がないと皆がいう。そこには子どもをまともに育てるためには当然という考えと、子どものために犠牲になってかわいそうにというニュアンスとが存在する。
もちろん続ける人もいるが、そういう人はつわものとされる。その言葉には賛嘆と、どこか非難が潜んでいるような気がする。つまり、こどもがいるのに働いているなんて、という非難と、完全な戦力になれないのに働いているなんて、という二重の逆のベクトルをもつ非難だ。
社会的には、子育て後の復帰も、男の子育ても、育児休暇やそれこそ保育園のサービスも見直されたし認知を得てきたけれど。
だけどもし、自分を育てたことが『犠牲』だったとか親に言われたら。
(きっと、…まあ、へこむよい)
会社のことも、仕事のことも最悪、自分がいなくてもなんとかなる。そもそも組織というものはそういうものだし、そうでなければ困る。
しかし、エースのことだけはそうではない。もうすでに誰も代わりのきかないところまで関わってしまっている。今、ここでエースを放り出すことは、絶対にできない。
だから、誰に恨まれても、失望されても、自分の決断は間違っていない。間違っていない、はずだ。
(…もう、そういうことにしちまおう)
休憩の合間に入園の手続きをして、会社からの帰り道でエースの好きそうな空色の弁当箱を買う。家に帰れば至極まともに飯をつくって、最近声をたてて笑うことを覚えたこどもと他愛のない話をする。つまり、鳥の先祖は始祖鳥だとか、アンパンマンの悪役のバイキンマンはどうしてドキンちゃんに弱いのかだとか、そういうことだ。
二組の布団を敷いてもエースは堂々とこちらに潜り込んでくるようになって、猫の子よりももうちょっとでかいかたまりの寝息を聞きながら、眠りにつくのが日課になった。
転園の初日には、青い弁当と青いかばん。持ち物の名前を確認して、揃いの園服と帽子をかぶって手をつないで歩いて十五分の保育園に登園する。もちろんおれの鞄はショルダーのままで、保育園の先生と連絡事項を確認するために、出社時間よりずいぶん余裕をもって家を出る。
これが「犠牲」じゃない、とは今は言えない。いつか、後悔する日がくるかもしれないし、絶対後悔しないって言ったらきっと嘘くさい。けどまあ、いつか、こいつが「犠牲」なんて言葉の意味がわかり始めたときに、それをきっぱり否定できればいい。
そういうことにした。