のしかかってきた行儀の悪い猫が腹の上で低く喉を鳴らす。
呼んだのかもしれず笑ったのかもしれず、どちらにしろ無遠慮にまるで悪びれもしない。
明りのない船室は本当の暗闇で。
ノックひとつなく扉の隙間を炎になって擦り抜けたドラ猫は、今は闇と同じ漆黒にひそやかに沈む。
ただ捉えた獲物を爪でおさえて。逃げ場なく熱と重さを伝えてくる。
「なァ」
まるきり猫の声で啼く。
人に擦りよるときのとっておきの甘い声。
頬の間近でふんふんと鼻をうごめかせて、ぬれた舌がざらりと上唇を舐めていく。
ひやりと熱を奪って乾いていく感覚。むずがゆいそれに抗えず薄く息を吸い込む。
そのわずかな隙間をこじあけて猫の舌が入りこむ。止める間もなく深く咬みつかれる。
獣の生温かい呼吸にわずかに血の臭いがする。絡んだ粘膜にも鉄錆の味。
手負いだ。厄介な。頭を振って逃れる。追いかけてくる口づけを掌で拒絶する。
指にひどく噛みつこうとするのを、不機嫌を顕わにして牽制する。
「…なァ」
尻尾があったら。きっとゆらりゆらりと低く揺れていただろう。
身勝手なくせに、ふと、こちらの機嫌を伺おうとする。
噛みつくかわりに、まろい頭を手のひらに擦りつけてくる。
ろくに手入れしていない、ぱさついた毛並み。それでも柔らかい、若い獣。
慎重に爪を隠した手が胸を擦る。刺青と皮膚の境界をなぞる。
遮るくせに払い落しはしない人間が、己が、どこまで許すか計ろうとする。
なァともう一度小さく啼いた。
「……頼むよ」
まるでふざけた哀願を装った。
まるで邪険にされることも織り込み済みの。
ただ一言、眠いと答えればすぐに身を引くだろうことがわかる。
押し退ければ「ごめん」と謝ってくることがわかる。
蹴飛ばせば、笑うだろう。ため息をつけば、わかりやすくしょぼくれるだろう。
そうやって隠すのだ。黙ってここに来た理由を。
ああまったく、何だってそう、切実な望みを、わざわざ断りやすい状況をつくって言うのだろうか!
「エース」
己は眠くて、少しばかり疲れていて、明日も上陸間際の雑事が控えていて。
ここは船の上で、下は大部屋で、拒絶する理由などいくらでもあるというのに。
こいつは思うほどガキでもなくて女でもなくて多少邪険にしたところで明日にはけろりとした顔をしているはずで。
だから、手を伸ばす理由など何一つないはずなのに。
くせっ毛に手を差し込む。小さな耳を撫でる。
むきだしの肩がびくりとゆれる。引き寄せようとした頭に、抗う力が入る。
強請っておきながら、与えられると思っていなかった馬鹿者が。
動揺する。
撫でろと寄ってくるくせに、撫でれば逃げようとする。
非常に腹が立ったので掴んだ頭を全力で引き降ろしてシーツに押し付けて。
押し付けたまま抜けだし、背後をとって膝をすくって仰向けに引っくり返す。
うぎゃだのふぎゃだの尻尾を踏まれた猫のごとき情けない鳴き声を無視して。
無防備な腹を膝で押さえれば形勢を逆転された猫が真ん丸い目を見開いている。
中途半端にかばうように胸の前で曲げられた腕が本当に猫の肢のようで。
包帯の解けかけた前肢をとって口づける。にじむ血を舌舐めずりして味わう。
野良猫は、自分の傷は、自分で舐めて治そうとする。
ならば、ひとには、野良に餌を与えてしまった、責任というものがあるのだろう。たぶん。
たぶん。
…寝ているときに腹の上に乗ってくるのは仕様です。
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