エースが行った後のエースの部屋はエースの部屋ではないようだった。
この机と椅子とベッドは前の二番隊長のお下がりで、もとから部屋にあった。毛布と枕は支給されたもの。青と茶のウェストブルー風のベッドカバーはナースから仲間になったときのお祝い。床のラグは翌年の誕生日に同じく彼女たちがそろえて贈ってくれた。上品でいい品だがエースの好みとは少し合わなかったのを知っている。ランプは読書家のジョズの古いものを修理した。本は図書室から借り出した海図と子供向けの冒険記。仕事と課した書類の横で、使い込まれたペンとインクはイゾウが彼の悪筆を見かねて自分の使い慣れたのをくれてやったと言っていた。散らばった手紙は、何の相性が良かったのかやたらと仲良くなっていたオーズジュニアや他の船に乗る仲間からのもの。ベッドの下の物入れにはサッチが冗談で買ってきた変なTシャツやアロハ。衣装道楽のハルタがもっと洒落っ気をだせと押し付けた上質の柔らかい上着。
もともと狭い船の中では「物」が回る。使い古しても海には捨てようがない以上、次に陸にあがるまで取っておくか、誰かにやるしかない。船の中はスペースが限られていて、隊長クラスでわずかな自室をもつのがせいぜいだから、ものは大切に使って、使わなくなったら誰かに押しつけることがよくあった。着なくなった服は若い船員に。使わなくなった道具は仕事と一緒に部下に。己が新しいものを誂えば、使い慣れたものは大事な人間に譲った。
エースの部屋の中のたくさんのものはあらためて見ればびっくりするほど他人のものばかりだった。身につけているものと使い古した鞄一つ、それが消えてしまえば残されたものは誰かがエースにやったものばかりで、彼自身のものはほとんどない。もとより物欲の薄い奴だとはわかっていたが、こうなってみれば、意図して何も持とうとしなかったのではないかとすら思う。そして確認してみたことはなかったが、エースが人にものを譲るというのもなかったのではないか。靴もベルトもぼろぼろになるまで使って、捨てるしかなくなってから新しいものを買っていたから予備の一つもない。持っていた防寒具は小さくなったからと売ってしまって、そのまま冬島に寄るタイミングがなかった。酒を贈られたことはあるが、それは己の好きな銘柄で。すぐに二人でその場で飲んでしまった。本は借りるだけ、蒐集癖もない。趣味は昼寝と食べることならものなど増えようがないが、それでも二年ここに居たのに。ほとんど来た時と同じありさまで行かせてしまった。
ひとつ嘆息して首を振る。本当は理由を少しだけ知っている。
マルコが押しつけた腕環がつくりつけの棚の一番上にある。押しつけた時に「着けない」と宣言された。その時は好みが違うなら別にそれでいいと流した。物をやるのは自己満足だ。だがそのあと、別の方面から理由を知った。
エースがもらったものを身に着けないのは燃やしてしまうからだ。
エースが炎に変わるとき衣服は共に変化して、戻れば元に戻る。けど己が身についていないものは駄目なのだと言った。靴も帽子も装飾品も、これなら元に戻るけど、多分ほかの物なら燃えてしまう。原型をとどめることなく消し炭になってしまう。意識していればなんとかなるけど、戦闘のときにそこまでかまってられない。買ったばかりの指輪やなんかを何度も燃やして後悔したことがあるらしい。
己を振り返れば、確かに鳥のときは裸だし、戻るときはきちんとアンクレットまで戻っている。正直どこまで戻るかなど考えてみたこともなかったし、新品の服を着ていたからといって、戻ったら消えていたということはないからそこは悪魔が上手く取り計らっているのだろう。
エースも、エースの帽子は、それごと炎になる。でも己が呉れてやったバングルは炎にかわることはないのだ。それは彼が炎になった瞬間に焼け崩れてしまうのだろう。
後には何も残らない。
「…馬鹿息子が、忘れ物でもしたか」
「……オヤジ」
巨きな気配に顔をあげれば、いつの間にか傍らに白ヒゲが現れていて、彼と同じようにエースの部屋をのぞきこんだ。
「……あの馬鹿、忘れるような物すら置いてやしねぇ…」
何の説明もしないまま呟いて、これではわからないと焦る。慌てて胸の内を探したら言葉にしなかった本音がもれた。
何も受け取らず。
何も残さず。
「いつでも出ていけるようにしてたみたいだよい」
途端に頭の上に拳骨が落ちてきた。衝撃に舌を噛みそうになって、一拍遅れて脳天に走る痛みに呻いた。三十路を越えて親父に頭を殴られるとは思ってもみなかった。
「オヤジ…」
思わず情けない声を出せば、マルコの頭をどついたでかい手でそのままエースの部屋を指差す。つられて指の先を見る。ものの多くない、まとまりのない、他人からもらったものばかりで構成さた、小さな部屋。
「マルコ。これがあいつのかたちだ」
「……」
「燃やせないもんばかりに囲まれて、嬉しそうじゃねぇか」
彼の弱点は、彼の足場が自分の炎で燃えてしまうことで。
自分の大事なものを自分の炎が焼いていくことを誰より恐れた。
もらいものばかり、自分が身につけられないものばかり大事にして。
壁に掛けられた手配書は彼の弟のもの。
机の真ん中に死んだサッチの形見の投擲用ナイフ。
封を開けてすらいない最上級のラムはオヤジからの二番隊隊長就任の祝い。二本もらって一本はみなで呑み、もう一本は大事にしまいこんだ。
願いをかなえた時に開けると笑って。
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