深夜の甲板に戻って来たマルコは様子がおかしかった。
でかけたときのままの、フォーマルなスーツと端正なシャツ。一部の隙もなく整えられていたはずの、そのシャツには皺が寄り襟元は大きく乱れている。ベストのボタンはすべて外れ、生地の良いジャケットはぐしゃりと脇に抱えられている。
黒皮の固い靴の足元は少し不安定で、だから、酔っているのかと思った。
「マルコ?早かったな。仕事は、終わったのか?」
問いに答えが返らない。
月の光の下でもわかるくらい、ひどい顔色をしていた。焦点を結ばない目が茫洋と宙を見ていた。
「おい、大丈夫かよ、他の皆は?」
眠れなくて、エースがそこにいたのは偶然だった。帰船は明日だと聞いていたから、なおさらにいぶかしんだ。
いつもと違う服は、まるで似た他人を見ているかのようだった。大抵の人間より近しいはずの男が、まるで別の何ものかになってしまったようだった。
「なあって。酔ってんのかよ」
不意に色の薄い双眸がひたりとエースにあてられる。表情のないまま、それでも確かにエースを見て、そのまま視線がずれる。エースの右腕に巻かれた包帯。ようやく返ってきた人間らしい反応に少しだけ安堵する。
「ああ、これ…昼間サッチと遊んでたら、加減間違えちまって」
覇気付きの刃がかすめて、浅傷なのに結構な血が流れてしまった。白い包帯には赤が滲んむ。
その傷に近い手首をマルコの掌が掴んだ。
「、マルコ、おい」
強い力に意表を突かれて、そのまま引き寄せられる。抱きすくめられるほどの距離に、慌ててもう片方の腕を突っ張る。こんなところで、と頭の片隅が思って、その自分の思考に焦る。焦りが、不審を曇らせた。
「何すんだよ!」
ごまかすようにことさら声を尖らせる。
制止を意に介せず、マルコは無言のまま掴んだ腕を凝視する。
尋常でない様子にエースは逃げようとするが、万力のような手が離れない。口元に暗紅色の舌がぬるりとのぞき、おもむろに傷跡の上を這う。
思わずびくりと腕が震える。蒼い唇がゆるりと弧を描く。嗤われたと思った。カッとなって渾身の力で振りほどく前に、その口の端がめくれ異様に長い乱杭歯があらわになる。
鋭い痛みに、噛みつかれたと、一拍遅れて理解した。
青い虹彩の中に瞬く禍々しい赤を認めた瞬間、エースは己が力をすべて解放した。
「……死ぬかと思ったよい」
「そりゃこっちの台詞だ馬鹿!マルコの阿呆!信じられねぇ!!」
「だからって全力で燃やすかよい。船まで燃えたらどうする気だったんだよい」
「燃やさねぇよ!ってかそもそも、あ…あんなことしたあんたが悪いんだろ!!」
「どうせ喰いつかれたって炎になるだけなのにねい…」
「うるせぇ!」
白ひげ海賊団の医務室。運び込まれたマルコと運ぶ原因をつくったエースと突然の火柱に叩き起こされた大勢の一人であるサッチと同じく急患に――傷など自力で治す患者に――叩き起こされた船医は、顔をつきあわせて、そろってそれぞれため息をついた。ことさらに、素敵な夢のさなかから蹴りだされた上に、痴話げんかめいたやり取りを聞かされたサッチの恨みは深い。
「んで、とりあえず、一部始終ってやつを聞かせてもらえる?」
何せエースの説明が、変だったの噛みついただの目が赤かっただの、かと思えば顔を赤くして黙りこくって、まったくもって要を得ない。
マルコは、エースが何もかも燃やしてくれたため、シーツを巻き付けただけの格好で軽く嘆息する。
そもそも、マルコは今日、船に戻らない予定だった。今彼らがいる国は白ひげ海賊団の庇護下にあり、寄港した折には有力者を招いての盛大な宴が行われるのが常だった。白ひげは気紛れに招かれたり断ったりしたが、今年は招かれる気になったらしい。数人の隊長と着飾らせたナースを連れ、夜も向こうの用意する宿で休む予定だった。マルコも伴の一人として付き添ったが、元よりここで白ひげに害をなすような人間はいない。護衛としてはジョズが今回の責任者だったから、好きに羽根を伸ばせとの白ひげの言葉通り適当に遊んで帰るつもりだった。
陸ならではの贅を尽くした料理をつまみ、やはり海の上では保存の難しい酒を適当に愉しんで、あとは居心地の良い寝床を見つけるだけ。その寝床もさして苦労せず気に入りのものを見つけたはずなのに。
「…向こうの館を出てから、船に戻るまでの記憶が落ちてるよい」
連れを伴って館を出るところまでは確かに覚えているのに、そこから先をまったく覚えていない。
「気がついたら戻っていて、…こいつが居て、変に血の匂いがして……。わからねぇが、こいつを見て、確かに美味そうだとは思った、気がするよい」
「それで噛みついた、と」
肩をすくめて悪びれないマルコに、エースのほうがむしろ噛みつきそうな顔をする。サッチと船医がまあまあと割って入る。
「鳥がいつから肉食になったんだ?」
「しらねぇよい」
平静な顔をしているが、マルコも割と困惑しているのだ。記憶がないというのがまず、非常に居心地が悪い。エースを意識した辺りから覚えている光景もどこか紗がかかっていて、自分以外の者が身体を動かしていたような強い乖離感があった。
冗談じゃなく、噛みつくなんて真似をする理由がわからない。今、エースを目の前にしても別に喰いたいとは思わない。
「…わからねぇ」
無意識に手が首元に伸びる。触れようとして、ようやくその違和感に気付く。その仕草を見ていたサッチも同時に気付いた。
「おい!おまえ、ここんとこ、何か傷になってんぞ!!」
「傷?」
「傷?だって、さっき…」
さっき、エースが燃やして、マルコは不死鳥になって復活して、だから傷など残っているはずがないのに。
マルコの右耳の下、首の半ばにふたつの傷跡があった。皮膚を食い破って穿たれた穴が、数センチの間を空けてふたつ。まさに、獣の牙に噛みつかれたような生々しい傷だった。
指でそれを探り当てて、マルコも愕然とする。痛みは、感じない。そもそもあることにすら気付いていなかったのだ。しかし自覚してしまえば、その傷はとたんに存在感を主張し始める。どんな怪我をも再生する身に、突然生じた異常。衝動的に掻き毟りそうになって、理性で抑えこむ。
不吉な沈黙を破ったのは、常に冷静であれという職業倫理に統制された医者だった。
「マルコ、ちょっと見ていろ」
そう言うと、老いてはいてもよく陽に焼けた左腕を差し伸べる。ためらいを見せない仕草で、右手のメスでその皮膚を切り裂いて見せた。
どっとあふれ出す血に、エースが慌てて立ち上がる。船医の意図がわからないまま、止血しようと反射的に手を伸ばす。それより先に医者の腕を奪う手があった。そしてその手首を止めるもうひとつの手。
「マルコ」
船医の、血の滴る腕を、握りつぶさんばかりに掴んだ手の持ち主が、それ以上の力でその手首を掴み、目的を阻む男を見上げる。
エースが息をのむ。サッチを見上げたマルコの双眸。蒼いはずの瞳が真っ赤に染まり、そこにあるのは、ぞっとするほどの憎しみだった。獲物を横取りされた獣のような。
「マルコ、手を離せ」
いっそ穏やかなサッチの声音だった。我にかえったようにマルコが瞬く。ふっと力が抜けて、船医の腕を離す。眼の色は既に元に戻っていた。
「…マルコ、大丈夫か?」
「…あぁ…」
一気に憔悴した様子でマルコが応える。エースは目の前で繰り広げられた異様な攻防に声もでない。船医は取り戻した腕に素早く包帯を巻きつけている。紫色の指の痕もすべて隠すように。そして平然と言った。
「首筋の二つの傷、一時とはいえ長くなった犬歯、今は消えているが…赤眼、血への嗜好…」
症状を並べあげて、ベテラン医師は自らの分析に首肯する。
「まあ、いわゆる『吸血鬼』の症状だな」
つづく
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