閑話 一
出会いは最悪だった。
最悪の時、最悪の場所。特にバーテンのあの男が極めつけに最悪だった。毒にも薬にもならない顔をして、極めつけに性質の悪い男。奴が出会ったその日に己にした仕打ちを思い返せば腸も煮えくりかえる。それを己も望んでいたのだと自覚していれば尚更。だから、あの店に向かう足を、愚かしいと分かっていても、それでも止めることができない。
そう、己は望んでいるのだ。それがいかに人の道から外れていたとしても。あの男の手にかき混ぜられる愉悦を。
重い扉をゆっくりと押し開ける。カウンターの中の極めつけに最悪なバーテンが眇めた視線を寄こす。機械的に柔らかい歓迎の言葉。聞くたびに笑いたくなるほどに白々しい。何時来ても薄暗い店内は、何時来ても人気がない。いつも居るのは真っ黒な猫一匹…と思いきや、カウンターの隅、猫の隣に一人先客がいた。
若い背。片肘をついて目の前のバーテンを見上げている。まったく、よくよく蕩しな男だ。向かい合ったバーテンの視線につられるように、先客が小さな頭をくるりとめぐらせる。ばちりと目があう。黒髪のファニーフェイス。ちょっと警戒ぎみだった瞳が好奇心に輝くのをつかまえた。言葉はかけない。バーテンから横取りした眼差しを心地よく甘受したまま、ただ素知らぬ顔で隣の席に滑り込む。
熱く見つめてくる相手には一瞥も与えない。まだ駄目だ。一番は決まっている。こう見えても純情なのだ。
苦虫を噛み潰す風情のバーテンを片手を挙げてなだめる。そのまま掲げた右指をぱちりと鳴らす。とっておきの渋い声。
「ミルク」
鳶色の目が真ん丸に瞠られる。ぽかんと空いた愛らしい口元と雀斑の頬を横目で楽しく眺めて、―――サッチは厳かに続けた。
「焼酎割り、ロックで」
大概のバーテンが絶句するオーダーに、ここの極めつけに最悪なバーテンだけは眉ひとつ動かさない。
カウンターの下からおもむろに未開封のミルクパックが取り出される。
「タウザー」
常と違うどこか柔らかな声で呼ぶ。猫が心得たように飛び降り、優雅に椅子の肢をすり抜けて近寄っていく。
猫は人とは同じ高さで餌をやらない、常に言っている通り、足元に隠すように置かれた陶製の容器にマルコはなみなみとミルクを注ぐ。行儀よくそれを待ち構えて、人の合図など待たずにしずしずと口をつける。
それを満足そうに見遣ってから、おもむろにマルコは封を開けたミルクパックから人間用のグラスにミルクを注ぐ。さらにやはりどこかから取り出した焼酎を注いで氷を放り込む。サッチのオーダーした手順そのままに。ステアの音など欠片もさせず、氷と酒とミルクが回る。
「お待たせしました」
本性を知らなければ実に好ましいと感じる笑顔付きで差し出される。
思わずにっこりと受け取って、サッチはいそいそと口をつける。これを飲みにここに通っているようなものなのだ。極めつけに最悪なバーテンの手によってかき混ぜられたとは思えない美味さに舌鼓をうって一息ついて、あまりの理不尽さを忘れるところだった。
「マルコひどぉい。何で猫の方が先なのよ」
「てめェは猫の後で十分だよい」
「うわぁ最悪ぅ。なのに何でこんな美味いんだろなー詐欺だよなー」
思えば最初の夜も、タウザーとやらいうドラ猫の上にうっかり座りかけて、ケツに爪をたてられた挙句、このバーテンときたら猫ではなく人間サマの方に席を譲れと言いだしたんだった。
(――― 生憎と、先にお掛けのお客様がいらっしゃいまして)
その時はそんなもんかと隣の席に移ったけど、あれってよく考えてみたら遠まわしに出てけって言ってたんだよなー、酷いよなーなんて懐かしい過去を回想していたら、隣の席のカワイコちゃんのことをうっかり忘れてた。鳶色の目の輝きがワクワクを通り越して好奇心で喰い付きそうなありさまになっている。
「なァ」
雀斑を散らした愛らしいファニーフェイス。それはそのままに、意外に低い声。細身なのに意外に男らしいガタイ。あれー?これってもしかして猫ちゃんの皮をかぶった虎じゃねぇのともちろん思っても口に出したりはしない。生憎命はさほど惜しくないが、この焼酎のミルク割は惜しい。非常に惜しい。
「マルコと、知り合い?」
名乗る前に問われた。しかも「マルコ」ときたもんだ。
「おう、おれぁサッチってんだ。よろしくな」
「ただの迷惑な客だよい」
うっかりおんなじタイミングで答えたもんだから、マルコが眉間の皺を深くして客商売にあるまじき不機嫌面をする。それはそれで貴重だったりするのを、癖っ毛の頭が鳩のように左右を見比べて、小首をかしげる。
「…トモダチ?」
「……勘弁してくれよい」
「チッチッ違うね、トモダチなんかじゃない、大親友ってやつさ」
殺人光線もかくやの視線から隣の青年を盾に逃げる。グラスを攫おうとするのを果敢に防いで無言の攻防を繰りひろげれば、「何だか知らねェが」青年が大真面目な顔で頷く。
「仲良さそーなのはわかったよ」
「ぐゅひっ、うげっ」
失敬。一部不適切な音声があったことをお詫びする。ちなみに前者が思わず吹き出したのを噛み殺しきれなかったもので、後者は横暴なバーテンが手首のひと振りでアイスピックをカウンターに突き立てたせいだ。いやいやそれはいくらなんでも堅気のすることじゃない。
「危ねぇよ!」
「うるせェよい」
元凶の若人が笑い転げる。くるくると表情が変わって実に、あー何だ、生命力に満ちている。生命力。なるほどこの向こう三軒両隣にはずっと縁のなかった言葉だ。実に眩しい。普段のマルコなら、そもそも他の客の前ではこんなおふざけに絶対につきあってはくれない。前に座るのがいつも通り魅力的な美女で、サッチがその美女にちょっかいを出そうとしたら、まるでよく躾けられたバーテンのような態度ですぐに引いたもんだ。(またそーゆう熱のない態度がむかつくことに余計に女心をくすぐったりするわけだけどそれはまた別の話)
しかしまあ、それだけでこのマルコという男がひっかかるとも思えない。いそいそと若人に向き合う。
「ねぇねぇおれより君さー、わっかいよなー?歳は?趣味は?このオッサンとの馴れ初めは?」
「おれは、」
若人の折角の返答を、無粋なオッサンが遮る。
「まともに相手すンな。無視しとけよい」
「でも…」
「うわっ!ひっでぇ!酷ぇよなぁ、君も思うだろー?客だってんならさ、もっとそれなりの態度ってもんがあるよなー」
「えーと、」
「訂正するよい。そいつはただの迷惑なチンピラだ。悪ィな。すぐに追い出してやるよい」
「いや…」
「若人がーこぉんな無礼で最悪なオッサンにひっかかっちゃだめじゃーん。悪いこといわねぇからおれにしときなー?イイコト教えてあげちゃうゾ」
「……」
「そいつを叩きのめすンなら遠慮せずここでにしとけ。後始末はしといてやるよい」
「………」
「きゃっ!コワーイ。向こうのがチンピラみたいだよなぁ。ねーいかにも何人か殺ってそうな悪人ツラしてるだろー?コワイよねぇ」
「あのさ、」
「そこの腐った舌だけ回る阿呆はほっとけよい。次は何を飲む?好きなのを言えよい」
「あ、おれ同じのー」
「黙れよい」
「あのさァ!」
ぱっきりくっきり良く通る声。オッサン二人が反射的にぎくりとなるような。
空のグラスを肢で掴んで、つまらなさそうに揺らしながら、仲良さそーなのはかまわねェけど、と青年が唇を歪める。邪険にされて拗ねてます、というには、ちょびっとばかり獰猛な笑みに知らず冷や汗が流れる。
「おれを挟んでハナシすんの、止めてくれる?」
しまった、とばかりに黙ったバーテンが、卑怯なことに気配を消そうとしている気配(?)を感じて、あ、逃げんなこんちくしょうとアイコンタクトだけで引きずりとめようとして、一瞥で突き放されて、視線だけで追いすがったら、心底呆れ切ったという青年の痛烈な一撃。
「あんたらつきあってンの?」
あ、今マルコのヒットポイント八割は逝ったね。若いモンって手加減がなくていいねー。ま、おれも瀕死だけどさー。轟沈したオッサン二人を冷然と見下ろして容赦なく、で?と促してくる。あれ、今のって本気だったんだ…?回答、しなきゃいけないの?
「誤解だよい…」
「誤解ですぅ…」
「ふうん」
マルコが機嫌をとりなすように差し出したグラスを、青年がひょいと摘まみ上げる。
「これ何?」
「エンジェル・フェイス」
おおお本気で機嫌をとりにいってるじゃねぇか。滅多に出てくることのないロジェ・グルー。むしろストレートで寄こせといいたくなるシロモノ。
「…美味い」
「そりゃ重畳。ジンとカルヴァドス、アプリコット・ブランデー」
「へェ」
くるりと青年がこっちを向いたもんだから、珍しい光景に見入ってた身としては思わず構えてしまう。えーと、ご機嫌は直ったのかなー?
「おれはエース。齢はよく聞かれるけど、二十歳は超えてる。趣味は特にねェ。マルコには喧嘩してたとき助けてもらった」
うっそぉと思ったけど懸命にも今度は口にはしなかった。マルコもそっぽを向きつつ訂正しないのを見ると、嘘じゃないが突っ込まれたくない経緯があるのだろう。
「サッチ、だっけ?おれ、ここに来たのは、まだ三回目なんだ。アンタの方がいろいろ詳しそうだからさ。教えてくれよな?」
…牽制?宣戦布告?それとも天然…?にっこり笑顔が本日最高の可愛らしさで、だけど最初の直観に従えば、そういえばこいつは子猫ちゃんじゃなくて虎の子だった。少なくとも、カウンターにピック突き立てられても平然としていられる程度には。
おう、任せとけーと答えながら、この二人は多分目を離しちゃなんねぇとサッチはしっかりと心に決める。なぜなら最大級の面白そうな予感がする。そしてサッチの予感は往々にして見当と若干外れた方向に想像以上の大当たりする。
サッチはちょっとだけ運命というものを信じてる。きっと今、目の前にあるものがそうだった。
(いねこ)
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