[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
三 話
こんな店だが、常連は何もタウザーとサッチに限ったわけではない。少なくとも「常連と言えなくもない」客なら、とりあえず幾人かはたしかに存在する。
たぶん、舌か、もしくは金銭感覚がおかしいのだろうと、実に客観的にマルコは見当を付けていた。ことによると、そもそもの人間性が歪んでいる可能性だってありうる、というか圧倒的にその可能性大だ。
なぜか今日は、そういう人物が二人も顔を揃えるという稀有な夜になった。そこへエースまでがやって来たとあっては、もうわけがわからない。ズブロッカのストレートにチェイサーを二杯も並べて不思議そうな顔をされた。それはそうだろう。
何を浮かれて――とでも言うしかないだろう――るんだよい、とマルコは自分で自分を窘めた。いい歳をしてみっともねェよい。
そんな店主の内心の葛藤になどまるで興味なさげな葉巻の男は、見てくれに似合わず猫好きらしい。空っぽの指定席を見遣る。よほどの寒さ――暑ければそれなりに、ビールだのモヒートだのに需要がある――でない限り、タウザー一匹分の入り口は常に開けているから、なかなか諦め難いのだろう。最近になって出入りするようになった似たような毛並みの持ち主が新たにもう一匹、隣の席に陣取っているからでもあるかもしれないが。
「何か――いや、ギネスを壜で。自分で注ぐ」
半時間ほど前から、解剖学なんたらという小難しげなタイトルをページをめくる毎に覗かせながら、控え目に言ってかなり薄気味の悪い図と写真がこれでもかと続く御大層な書物に没頭している年齢不詳の男が、マルコになど目もくれず、クールにオーダーを寄越した。賢いやりかただよい、と他人事のように感心する。さすがにそのオーダーでは、いかにバーテンの技量が酷かろうと、全く影響しない。タウザーのことはさておき、顔が映るほど磨かれたカウンターや、わずかばかりの灯りをキラリと弾いて煌くグラスについては、この店はそんじょそこいらの店の水準を遥かに凌駕する。
そういえば、周囲が白く煙るほど葉巻をふかしながらスポーツ新聞を読み耽っているポリ公(制服だろうが私服だろうが、まず見誤りようがない)は、いついかなるときも断固としてストレートだ。成る程、とマルコは深く感じ入った。ほとんど感動を覚えたの域だ。これまた、美味いも不味いも、バーテンの腕にはほぼ関係がない。
「なあ」
一応は気を遣ったのだろう。自分のほかはたった二人の客しか居ないことはわかりきっているくせに、ざっと「FLAME CONNECTION」店内を見渡してから、ずっと気になってたことがあるんだけど今いいか、とためらいがちに、エースは声を掛けてきた。
「――なんであのときあんた、よその街でバーテンなんかやってたんだ?」
ビンゴ、とマルコは内心で呟く。というより、多分にいまさら感の漂う問いだ。
「別の店に居ちゃ悪ィかよい」
悪かねェけど、と口ごもる。
「本物のバーテンは、じゃあ、そのときどうしてたのかと思ってさ」
「…………」
まじまじと、マルコはエースを見つめた。てっきりあの「一夜限りの過ち」についての恨み言がくるものと侮っていたが、こいつが気にしているのは、まさか。
「不摂生し過ぎて、前の晩に救急車で病院送りになったんだよい。調べてみりゃすぐわかる――コンクリ抱いて海に沈んでたりしねェよい」
「そ、そんなこと別に」
青くなったり赤くなったり、エースはひとりで忙しい。大方、その頭の中では、「SLEEPING IN」の本物のバーテンをなんらかの理由で殺害したあと、素知らぬ顔で客を迎えていた凶悪な犯罪者像が出来上がっていたのだろう。あの晩の狂気じみた時間がふと甦る。まともな人間なら到底理解出来ない衝動にふたりして身を任せた、あれはまるで理性を手放した獣の交わりだった。殺人者なのではないかと疑われていたとしても仕方ない。むしろ、どうして未だ通報されていないのかとさえ思う。
(御想像のとおりだよい、ともし俺が答えたとしたら、お前、一体どうするつもりだったんだよい)
単刀直入にそう訊いてやろうかと口を開きかけたが、さすがに思い止まった。あんたの味方になろうと思って、とでも言われたら、返す言葉に困るのはこちらのほうだ。
尤も、そんなふうに自惚れるには、こちらは少しばかり歳を喰い過ぎていたが。
「あの店で修業してた時期もあったんだよい。本物のマスターは、その昔、天才バーテンダーなんて言われてた。酒で手ェ震えるようになってからは、どうにもサマにならなくなっちまったがよい」
ほとんど溶けてしまった薄っぺらの氷がひとひら、グラスの中を泳いでいる。ふと、何年も棚の隅にただ並んでいるだけだったマラスキーノが目に付いたので、マルコは気まぐれにシェイカーを手にした。セブンス・ヘブン。雑然とした記憶どもの中から、そんなカクテルの名前を拾い上げるのにも少し間が必要で、鈍っちまったもんだよい、とマルコは苦笑する。
「あのビルの取り壊しが決まってマスターも店たたんで引退するってのを、うっかり小耳に挟んじまったのが運の尽きってやつだよい。久方ぶりに顔拝みに行ったら、おれが泊ってくもんだと勝手に決め込んじまってる。客もいねェのに閉店まで待たされて、タクシー拾うぞって通りまで連れだって歩いて、そこで血ィ吐いてブッ倒れやがった。ロクに動けもしねェのに、今夜で最後だから何が何でも店開けるって聞かねェから、仕方なしにおれが代わりを買って出たんだよい」
ガラにもねェことした所為であの嵐だ、と肩を竦めると、エースは目に見えて肩の力を抜いた。奢りだよい、と促せば、嬉々としてカクテルグラスに手を伸ばす。ほんのちょっと口をつけて少し考えるそぶりをみせたあと、くいと飲み干した、その咽喉元に血管が青く透ける。
「これ、結構強いよな?そんなに甘いわけじゃねェけど苦くもねェし、よくわかんねェけど、なんか好きだ。何入ってンの」
「ジンとマラスキーノ、あとはグレープフルーツジュースが少し。マラスキーノはサクランボのリキュールだよい」
チェリー向きだ、と意地悪く笑うと、そうじゃねェってあんた知ってンだろ、とエースはニヤリと口の端を上げた。とんだ不意打ちだ。
おんなじの、と命じられるままにシェイカーを振る。どこか違うところを見ているようなまなざしで、エースはぽつりと言った。
「あのときのあんた、退屈なハイエナみたいでカッコよかった」
少し手元が狂ったせいで入り過ぎたジンの分だけ、常より多くなったシェイカーの中身を、サービスしてやったとでも言わんばかりの澄まし顔で、縁スレスレまで注ぎ切る。零さぬようにと唇から迎えに行くようすが、そっとグラスにキスでもしているように見えて、マルコは当惑した。
「褒めてるようには聴こえねェよい」
「惚れてねェし」
聞き違いだと正す気にもならない。黒い、黒過ぎるほどの虹彩が、カウンターの向こうで野生の獣のように鋭い光を放っている――灼熱を宿している。
「おれ、もう一度行ってみたんだ。あの店、『SLEEPING IN』に」
「……酔狂な奴だよい」
「あの日たまたま行っただけの街だから全然地理わかんねェし、なんとか辿り着くまでずいぶんかかった。ようやく記憶にある通りを見つけて、心臓おかしくなりそうなくらい緊張しながら角を曲がったら――」
「曲がったら?」
「そしたらあのビル、もう解体が始まってた。なんだ夢か、って思ったよ」似合いもしない自嘲の笑みを浮かべて、またグラスを空ける。「あの晩、いくら飲んでもちっとも酔えなかったし、喋ったことだって全部憶えてる。なのにあんたとあんなふうに」
「次は?」
「もう一杯くれよ」
深いためいきを吐いて、帆船のラベルのついたボトルを手に取る。カウンターに行儀悪く頬杖をついた、エースの視線が追う。
「その指」
「この指がどうかしたかよい」
「痣が消えるまで、結構かかった。膝の裏とか、足首とか。脇腹や背中も色が変わってて――なあ」
「知らねェよい」
「ああいうの、もうやらねェの?」
絶句したマルコの手からシェイカーをひったくると、トップだけ外し、エースはストレーナーから直に、カクテルを咽喉に流し込んだ。
「おれはさ、またあんたに逢えて」
目線の高さを合わす為だろう。カウンターに身を乗り出して紡いだ言葉の途中で、ぐにゃり、とスツール上で後ろにのけぞるように揺らいだ上体を、いつ近付いていたものか、書物片手の常連客が、無表情に受け止める。
「不安定な姿勢は、通常、睡眠には適さない」
「ま、雀斑散らしたガキの分際で、そんだけ飲めばな」
煙の合間に葉巻臭い男がそんなことを言うので、さりげなく勘定書きに視線を遣ったマルコは、気取られぬように目を剥いた。あれでも、どう切り出したものか逡巡していたものらしい。ズブロッカを、ちびちびと六杯。セブンスヘブンを三杯飲ったから、なんだかんだで九杯。
(あのときのあんた、退屈なハイエナみたいでカッコよかった)
(ああいうの、もうやらねェの?)
マラスキーノはこの先、当分切らしておこうとマルコは決めた。
(こよいさま)
≪ 電車で読むには厚すぎる | | HOME | | アルコールとセックスと猫、そして彼をめぐるいくつかの謎 閑話1 ≫ |