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※注意
このお話は、オフライン本の再録です。
「FLAME COLLECTOR」のこよいさまといねこの共作となっています。
書き手はそれぞれの話の最後に記載しています。
二 話
バー「FLAME CONNECTION」の閉店は二時。この店に長居をするような酔狂な客はいないから、マルコはいつも判で押したように同じ時間にバーカウンターを出て表看板の明かりを落とす。目を閉じてもできる手順で店じまいをし、わずかばかりの売上をおざなりに計算する。まとめたゴミ袋を路地裏の集積所に放りだして、その場で煙草を一本銜える。客が一人もいなくとも、バーテンはカウンターの中でだけは絶対に吸わない。いつか誰かに教わった古臭い言葉を馬鹿のように律義に守って、はちきれそうなゴミの山を横目で見ながら悪臭と煙とを吸い込む。
いつだってここは小汚く屑にまみれ腐臭を放っていて。そのくせ積まれたゴミがとどまるということはない。知らぬ間にひとりでにどこかに流れていく。まるでクズにも行くべき場所があるとでもいうように。ゴミ袋にも詰められない、周囲の汚穢を置き去りにして。吸殻を地面に投げ捨てる。雨とも酒ともつかない水溜りがわずかな火を消すに任せる。店の中に戻って自分のための酒をグラスに注ぐ。明け方まで飲むのが常で、大概は事務所でそのまま眠る。
泥の底のように澱んだ単調な日々を自動的に繰り返すことに否やはない。かつて己が為したことに較べれば勿体ないほどの待遇。このままこの場所で朽ち果てられるならそれに優る幸運はきっとない。それを理解しているしそれを受け容れている。それでも。
それでも、あの日から。時折ささいな感覚を契機にその日常が歪む。
靴の底が固いざらつきを踏んで一瞬止まる。フラッシュバック。路地裏に散乱したガラス片を踏み潰す、感触が記憶の取手を無遠慮に引っかく。
眼裏にうなじの白さが溢れる。あれは二週間前のことか、それとも十年も前のことか。掴んだ腰骨の固さが掌に蘇る。優美に反った背の陰影と、そこだけ赤かった耳の形。生々しい記憶を引きずり出して、頭の中の破砕機にまとめて放り込む。意識して振り払う。あれは、通り魔と同じものだと。
一晩とすら言えない。ほんの数時間の交情は、魔がさしたとも冷静に計算していたとも言える。ほんの少し預かっただけのバーで、まさに最後の瞬間に飛び込んできた青年。二度と会う機会はないと、マルコの方だけがわかっていた。だから止まらなかったし、止めなかった。翌朝にはマルコはその街に居なかったし、その昼にはビルの取り壊しが始まったはずだ。例え夜に再び青年が現れていたとしても、そこには店の影すらなかっただろう。あるいはまやかしだったのは己の方だろう。それでも、マルコにとってはあの青年こそが魔物だった。その証拠に、顔立ちはろくに覚えていないのに、あの黒い眼差しが焼き付いたように記憶から剥がれない。日ごと夜毎に現れては腐臭のする日常を蚕食する。
―――まるで夢魔のようだとマルコは哂う。嗤うことができる。
案ぜずともいずれ、忘れることばかりが得意な脳みそから、何もかも擦り切れて薄れていくとわかっているから。
路地の奥で猫が鳴く。
一日の終わり、まとめたゴミを片手にマルコは無意識に馴染みの姿を探してあたりを見渡す。あれが鳴くのは珍しい。とっておきのハスキーヴォイス。甘くのばされたその語尾に人間の怒声が被る。人間の、姦しい不穏な気配。
狭い路地にビールケースを積み上げてさらに狭くしたその奥。上階の窓明りをわずかに光源として、数人の人影が揺れた。あからさまに殺気だった不穏な匂いが鼻をつく。猫の鳴き声より理解できない、同属のあげる威嚇の叫び。
喧嘩など珍しくもない。汚れたビルの壁にもたれて、マルコはより深い闇から窺い見る。蟠る影は五対一。多勢に無勢。路地の入口を塞ぐ五人は見るからに堅気ではない。対してこちらに向いているのは、学生のように若い背だ。何の事情があるかは知らないが、いささか穏やかでない。どちらもさらに奥に潜むマルコに気付いた様子はない。関わる気など欠片もないが、近所で警察沙汰を起こされても困る。何も見ないふりで店にもどるべきか、適当に騒いで散らすべきか。決めかねながらも暢気に煙草に火をつける。煙を吐き出す間にも威嚇はやおら直接的な暴力にとって代わる。ささいな何かをきっかけにして。
酔っ払いでもチンピラでも五対一では勝負にならない。この狭い場所では逃げ場もない。一方的なリンチになるのは目に見えている。そうなれば気にするのは死人が出る前に止めるタイミングだけ。それを疑っていなかった。そしてその予想は大きく裏切られた。
多勢と対峙する細身の影。その後ろ姿が沈んで、弾かれたように撓る。人間が壁に叩きつけられる。ぐしゃりと鳴る。苦鳴、悲鳴、裏返った威嚇の声。掴みかかったはずの一人がすり抜けてビールケースに突っ込んでくる。ひるがえった、足の軌道を残す白いスニーカー。
一人が力任せのタックルをかける。別の一人が勢いに任せて殴りかかる。混戦。しかし青年は組みつかれても倒れず、殴られては殴り返す。蹴飛ばす間に再び殴られ、揺れた上体が戻るままに殴り返す。飛ばされた人間が壁にぶつかり崩れ落ちる。三人。マルコは煙草をくわえたまま観戦をきめ込む。止める気など毛頭失せた。それほどに見物だった。その青年は決して洗練された動きをしているわけではない。決して無傷ではない。しかし力が違う。しなやかで獰猛。確実で無慈悲。ほどなく四人目を完全に沈め、最後に青年自身より上背のある男の喉を掴んで持ち上げる。化物じみた膂力に驚きながらも、わずかに窺える横顔にふと既視感を感じた。
既視感。否。確信だった。折りこんでいた記憶の箍が一気に外れる。まさかという思いが対応を遅らせる。
ビールケースに蹴り込まれていた一人が割れた瓶を掴んで立ち上がる。尖った先端が鋭利にきらめく。両手の塞がった青年に向けて振りかぶる。警告より先に飛びだす。振り向いた青年が肘を突き出してかばう。飛び散るガラスの欠片。再度凶器を振りあげた男の襟首をマルコは掴んで引き倒す。バランスを崩した男を青年が追い打ちで蹴り飛ばす。鈍く人体の壊れる音。肋骨をへし折られて失神した最後の一人を掴みあげて、ようやく青年はマルコを振り向いた。
怒りと殺意を漲らせた蒼白な面。額から血を流し、獣の気配を纏わせたまま凶悪極まりない眼光がマルコを認める。認めて、停止する。
少し跳ねた長めの黒髪。潔いまなじり。黒い炎のような瞳。ゆっくりと丸く見開かれる。
え、とひとつ間抜けた声。
次の瞬間には雀斑の浮いた頬が真っ赤に染まった。
縄張りのぶつかった猫同士のような緊張を、破ったのは特徴的なサイレンの音だった。とりあえずの懸案を全て棚上げにして、マルコは青年が反射的に見せた迷いにつけこむ。
「こっちだ」
手招きすれば躊躇する。信用されないことは承知で背を向ける。
「早くしろ。面倒はごめんだよい」
後ろから殴りかかられたとしても文句はない。さりとて賭けと言うほど切実でもなかった。背後の気配が続くことに、マルコは奇妙に満足を覚える。
暗い路地の奥へ踏み込む。猫の甘い声がもう一度聞こえた。
裏口から店内に招き入れる。最低限の明かりをつけ、タオルや救急箱を用意する間、青年は所在なげに立ち尽くし狭い空間を見回している。
「適当に座っとけよい」
応えない。そのくせ、マルコを窺う視線にはわかりやすい好奇心が透けて見える。慣れた場所で、素面の頭で見れば思っていた以上に若い、のかもしれない。少なくともほんの数週間前の色馴れた青年の風ではなかった。やはり酔っていたのかと思い、そう思えば、安堵とも失望ともつかない感情を覚える。
「とって食いやしねェよい。座れ」
むっと口の端を曲げる仕草が幼い。マルコを視界から外さないまま、青年は一番隅のスツールを選ぶ。低い背もたれに手をかけたのを見て、はたと警告するのを忘れていたことに気付く。そういえば、「あれ」が入りこんでいたはずだ。
うわっ、と上擦った声をあげて後じさった青年の反応は、屈強な五人に囲まれても平然としていたにしてはまったく可愛らしいほどだ。もっとも、それも無理のないことだろう。掛けようとした椅子に巨大な毛玉が乗っていて、さらにそれが迫力たっぷりに睨みあげてきたとしたら。
「…………猫?」
まさか、とか信じられないといったニュアンスのこもった問いかけにマルコは重々しく返す。例え信じられなくとも真実より雄弁な回答はない。
「猫だよい」
貫禄のある黒い塊が鷹揚に頷いた、ように見えた。もちろんただの偶然のはずだ。
「……ほんとに猫?」
「猫だよい」
この辺り一帯をしきるボス猫だ。真っ黒の長毛種。黒猫らしい黄褐色の目。頬から口元横一線だけが特徴的に白い。あるいはどこかのやんごとなき血が混ざっているのかもしれないが、少なくともここではノラの生活を満喫しているように見える。知らぬ間に来てはふらりと去っていく流れ猫だ。
「…食いもん出す店に、猫がいていいのか?」
意外に常識的なことを言う。無言で見返せば、雀斑面に単純な疑問だけを浮かべている。非難するつもりはないらしい。先刻までの警戒も忘れたような切替に拍子抜けする。興味深々に眺めているのに、猫には手を伸ばそうともしない。その礼儀正しさに、ふと誰にも言ったことのないことを零した。
「大恩ある人に似ていてねい」
追い出すに追い出せない。それをわかっているのか、この猫は我が物顔で出入りする。あいにくそれを咎めるような上品な客はこの店には来ない。むしろ興がって席をゆずる始末で、まさに青年が座ろうとしたその場所がこの猫の指定席になり果てている。
「こいつに似てンの?それ、どんな人だよ」
くしゃりと、青年が笑った。屈託なく人懐こく目を細める。つくりものではない、本心だと確信する。魔物じみた青年でもなく、喧嘩慣れした子どもでもなく、ただ当たり前の若者の笑みにわけもなく驚く。
商売柄、人の本性を見抜く目は多少なりともあるつもりだった。そうでなければ生き残ってこられなかった。そのささやかな自信が揺らぐ。どの印象も正しく、どの解釈も間違っているように思える。これは何者だろうか。
青年は、警戒をいささかなりとも緩めた風情で、大人しく猫の隣に腰を降ろす。カウンターの中からタオルを渡せば、今度は大人しく受け取った。
「怪我はどこだよい?」
「返り血だ。怪我なんてねェ」
「血ィ出てンだろい。いいから、見せろ」
額の一か所が切れて派手に血が流れている。割れ瓶を防いだときに破片が飛んだのだろう。手当てといっても、せいぜい消毒して絆創膏を貼るだけのマルコの手を、青年は肩を竦めて受ける。反射的に威嚇したいのを耐えている動物の緊張。形の良い額から指を引けば、ふと息を吐く。
「ここ、あんたの店?」
「ああ…、一応はな」
「さっきは、助かった。ありがとな」
「…何もしてねェよい」
「何で?加勢してくれただろ?」
新手かと思って殴りかかるとこだった。さらりと物騒なことを言う。その前にしばらく傍観していたことを自己申告する気は当然ない。
「この猫、さっきの場所にいた?」
「縄張りだ。荒らす奴は気になるんだろい」
「ここも縄張り?」
「そう」
「あんたは?気にならねェのか?」
諍いの原因。突出した強さの由縁。あいにく己はボス猫の器ではない。肩を竦めて詮索する意志のないことだけを返す。
「名前なんての?」
「タウザー」
きょとんとした視線に見返されて間違いを悟る。そのことに自分でも驚くほど動揺する。構える余裕もなく、振れた感情の大きさに愕然とする。
「猫の名前じゃねぇよ。あんたの名前」
動揺する。名前を聞かれると言うことを。想像すらしていなかったことに。マルコは、この青年の名を知ろうともしなかった。そんなことを思いつきもしなかった。「関係ない」はずなどなかった。呼び止めたのは己で、招き入れたのも己だった。そのくせ名前ひとつ聞かれる覚悟もなかった。
「…順番が違うだろい」
己が鉄面皮だけを頼りにかろうじて切り返す。お定まりの常套句に「映画みたいだ」と笑い転げる。頬杖をつく。優雅を気取って小首をかしげて見せる。古い映画の一幕のように。
「エース」
「…マルコ」
失策だ。客とバーテンは名を交わしたりしない。ましてや、先に名乗らせるなど。気付くのはいつも遅い。マルコ、と口の中で繰り返して、「エース」は一転にやりとお世辞にも品の良いとは言えない笑みを刷く。ありもしない尻尾を握られたようで落ち着かない。魔物に名を教えた者の末路は、大概の物語で一緒だったのではないか。
誤魔化す方法を思いつかない。習慣のように馴染んだ道具に手が伸びて、また失敗を悟る。この状況で聞くことはひとつしかない。
「…何を飲む?」
「金持ってねェ」
「営業時間外だよい」
じゃあ、と迷いなく笑う。「この前と同じヤツ」
やはり、己は自ら魔物を招き入れたらしい。若く怖れのない眼差しをかわす。思わず歪めた口元が、せいぜい厭らしく見えていればいいと思う。
マンハッタン。赤褐色のカクテルの女王。戯れにターキーではなくオールド・タイム・ライに替える。カウンター越しに差し出せば、マルコを見上げたまま、グラスを指の先で撫でるように引き寄せる。口づけて、途端に眉を寄せた。「…なんか、違う」
イイ舌だよい、掛け値なしに褒めれば、エースがべぇッと紅い舌を突き出して見せる。抓んで捻ってやりたい肉だ。さぞかし甘ったるく喉を焼くだろう。
「甘いばかりじゃア厭きるだろい」
「飽きるほど知らねェし」
引っ込んだ舌が唇の端を舐める。顎をあげて飲み乾す。空にしたグラスをぞんざいに押しやって、あのさ、と呟く。不意打ちの気弱な響き。
「ここは、明日もやってる?」
「…やってるよい」
「じゃあ、また来る」
ごちそうさまと律儀に手を合わせて、するりと獣のように出口をすり抜ける。見事な退去は尻尾の陰ひとつ残さない。残された方の猫と視線を合わせてマルコはそこに潜む同意を汲みとる。
この店の平穏は、きっと昨日が最後だったのだろうと。
(いねこ)
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