陸が近付いていた。風の匂いでわかった。襲撃は百回を超えて、いい加減手詰まりだった。港が近いのはひとつの分かれ目だった。逃げるにしても、むこうが諦めて放り出すにしても。船の仲間はいまだ治療中として医務室にひとまとめに入れられているが、傷はほとんど治っていると聞くし、特別に警備されている様子もないから、逃げるとなれば動けない者はないだろう。もっとも船を失くし白ひげに負け続ける船長に、今さらついてこようというやつがどれほどいるかはわからないが。そうなったらなったで、一から独りで始めるだけのことだった。
夜風が冷たい。昼間にもらったスープが腹に沁みている。胃袋にとってはあれっぽちじゃ足りもしないが、飢えた時の食物は一滴一片残らず身体に吸収される気がする。
おかしな船だった。船長も、船員も。血もつながらない人間が家族ごっこをしている。攻めてきた敵を介抱し、襲い続ける敵に食事を与える。最初はなぶられているのかと思ったが、そのうち本気なのだと知った。まず、下っ端は寄ってこない。能天気に近寄ってくる者は強さの気配がする。武器を取り上げないかわりに、人質をとったり無差別に暴れても対処できるように配置されている。甲板や船内を多少うろついても文句は言われないが、火薬庫や武器庫のあたりには人が配置されていたり、操舵室への通路で酒盛りが行われていたりする。きちんと侵入者に対して警戒している。なのに、海から引き揚げる。舐められているわけでも気まぐれでもない。そして腹立たしいことにこの船はまた、奇妙にエースを信頼してもいた。炎の能力者を船に置いていて、海の上ではそれに対処する有効な方法などないに等しいのに。エースがこの船を燃やしてしまわないのは、ただ自分の足場が無くなるからだ。仲間が乗っているからだ。港についてその理由がなくなれば、こんな船燃やすのにわけはない。それを信頼されている。自棄になってこの船を燃やしはしないということを、そんな愚かな選択をするはずがないと。
歯噛みする。
本気でこの船はエースが決断するのを待っているのだ。それがどんな結果だとしても。
だから。だからもう終わりにするのだ。
ジンベエと戦って尽きた体力は数日の眠りで回復した。情けをかけられた食い物で身体に熱量が戻る。気力は不思議なほど充実していた。機は今しかなかった。
昼前にはこの船は港に着くだろう。ここまで陸に近くなれば、搭載されている小舟を奪っても逃げ着ける。火の手が上がれば仲間はエースの意図を知るだろう。呼応すれば逃げろと伝える。してくれなければそれまでだ。
船を沈めるのが目的ではないが、エースが能力を解放すれば否応もなくすべて燃えるだろう。心配する義理はないが、この船は海賊船のくせに非常艇が充実していたから、お節介で奇特な船員も大半は助かるだろう。
だから、全力で、すべての能力をもってあの男に挑む。
死ぬ気もないが逃げる気もない。
逃がされる気も、ない。
死にたがり、と誰かが言っていたのを思い出す。
きっとそうなんだろうと思う。
きっと、ずっと、自分が自分として死ぬ場所を探している。
鬼の子として殺される場所ではなく。
そも、白ひげの隙を狙おうという考えが間違っていたのだろう。
未明の襲撃は、それまでのやり方は捨てた。最大級の炎を噴き上げての正面突破。火拳の異名そのままに、己が生み出す劫火を白ひげの居室に叩きこむ。住人の体格通り巨大な扉が火勢に弾け飛ぶ、その前に内側から震えた。
弾き返された炎と扉の残骸と、空気の塊が衝撃の波となってエースを襲い、炎の身体をつき抜けていく。吹き飛ばされて後ずさるが、重大なダメージはない。エースの足元から燃え広がった火が甲板をゆるりと舐めていく。周囲がにわかに慌ただしくなり、いち早く消火を叫ぶ怒号が響き渡る。その喧騒を無視してエースは力を溜めて待った。いまだ火が弱くまといつく入口から、大きな影がゆっくりと姿を見せる。夜着の上にマントを羽織っただけなのに、その威圧感はすべてをひれ伏させせるようだった。
「寝起きの挨拶にしちゃ乱暴すぎやしねぇか、エース」
渾身の火拳を、焼け焦げひとつ作らず跳ね返した男が特徴的なひげの下にやりと笑う。
ここにいるのは、かつて、エースの憎むあの男と唯一互角に戦った存在。
たわむれに呼ばれた"息子"という言葉が胸の奥にどうしようもない嵐を喚び起こす。
エースの喉が声にならぬ唸りをあげ、唸りはそのまま吶喊となった。
「白ひげェェェェェッッ!!!」
朦朧とした頭を床に抑えつけられたまま、熱くはないのだろうかとぼんやり思う。倒れ伏したエースの身体の下からも炎は移り男の足元を焼こうと広がっている。白ひげがロギアたるエースの身を捉えることができるのは嫌というほどわかっていたが、だからといって実体化した部分ならいざ知らず、周囲で燃え盛る炎が熱くないはずはない。
完敗だった。死力を振り絞った攻撃は弾かれ、払われ、振るい落された。恐るべき膂力と巨体に似合わないスピードで生み出される打撃は、炎の力を借りて中空を舞うエースを確実に捉え、実体化したところに極小の地震が叩きこまれた。炎を撒き散らして吹き飛び、それは火災の範囲を否応もなく拡げた。男は自身の船が燃え落ちようとしているのにも頓着せず、傲然とエースをあしらった。ついに何度目かの振動を受けて崩折れかけたところを巨きな手で捕らわれ床に叩きつけられた。
勢いの弱まった炎が投げ出された己の腕を這っている。揺さぶられた脳みそは考えることを半ば放棄しようとしている。熱くないはずがない、ぼんやり思う。もう動けないのだから放せばよいのに。轟々と燃え盛る音の中に、周囲の喧騒が耳に戻ってくる。消火の指示、水を運ぶ船員たちの声。もう無駄だ。これだけ火勢が増せば消しとめられるものではない。早く逃げればいいのに。死ぬのは自分だけでいい。止めをさせば少なくとも炎の元はおさまる。この男にそれができないはずがないのに。
押さえつけられた頭上から白ひげの深い声が落ちてくる。
「死にたいか小僧」
「死にたくねぇ」
即答していた。その声が無様に掠れていて笑える。それでも考えるまでもなかった。いつだって死にたくなどなかった。死を目の前にしてもそうだった。誰もが死ねというから、死んでなどやるものかと思っていた。
その応えに何を思ったのか、白ひげが重ねて問う。
「ならなぜ逃げねぇ」
「敗けたくないからだ」
「何に」
運命に。
思っても、それは口にしなかった。あまりに陳腐だった。それは運命にとらわれていると告白しているも同義だった。
ふっと指の先で最後に燃えていた炎がおさまる。力が尽きようとしている。完全に実体化した身体がぐっと重くなる。代わりに頭を押さえつけていた手が離れる。つられたように見上げれば、広い掌が真っ赤になっていた。肘の先から先は衣服も燃えてしまっている。やはり熱かったのだと思い、何故そんなことをしたのだろうかと思った。触れずとも叩きのめせる力があるくせに。
「…あんたはなんで海賊で家族ごっこなんてやってんの」
喋ることも苦しいのに気付けばそんなことを聞いていた。
血と煙でかすむ目に白ひげの表情が映る。静かな顔だった。傲岸に笑っている印象しかなかったから驚いた。こんなふうにまじまじと見るのはそういえば初めてかもしれない。その名のとおり、ゆたかにたくわえられた口髭が「なぜ、か…」と問いを反芻する。喧騒の中でもその声はよく響いた。
「こんな広い海原にひとりぽっちで、頼りがないのはあんまりにもさびしいだろう」
息を呑んだ。衝動に身が震える。
それはかつて、おとうと、が言った言葉だった。十年の歳月のあとに、今目の前のこの人物に言われていることにめまいがする。
「頼り……」
「そうだ、頼りだ」
なぜ自分についてくるのかと問うたとき、おとうと、はそう答えた。己が強いからついてくるのではない。己に生き抜く知恵があるからではない。己が優しいからではない。己が、あの男の子どもだと、知らなかったからではない。
ただ、一人は、辛いから、と。
呻く。違う。一人ではない。己はもう、一人ではない。頼りがないと生きていけない子どもではない。そのために海に出た。そのためにおとうとの元を離れた。
「おれには仲間がいる…」
エースが積み上げてきたスペード海賊団の仲間。気のいいやつら。過去など何も知らず、エースの強さに惹かれて集まった。己は一人ではない。ちゃんと、誰かの信頼を得ることができていたはずだ。彼らは無事に逃げただろうか。エースのわがままに巻き込んでしまった。ろくでもない船長についたせいで。だから、最後まで逃がしてやらないと。
「そうだな。お前が守ってやらなきゃいけねぇもんばかりだ」
「あたりまえだ…おれが船長だ」
白ひげの眼差しが哀れむように細められ、ふうと大きな息が吐かれる。
「なら誰がお前のことを守ってやれる」
虚を突かれて、絶句した。
「…おれを守る?」
言葉にして、可笑しくなる。だって。守られるほど弱くはない、そう思っていた。それが思い上がりだったと知らされた今は。
「そんなもの、要らない」
「要らねぇ人間なぞいねぇ」
白ひげが周囲を振り仰いで、ようやく気付く。火勢がおさまっている。あれだけ拡がっていた炎が消し止められつつあった。これで白ひげがエースと溺死で心中することはなくなった。まったく実に優秀な「息子」たちだ。エースにはこの船ひとつ沈める力すらないというわけだ。無力を胸の内で噛む。
そうだ、要らないんじゃない。そうではない。
「おれには守られる価値なんてない」
エースにそんな価値はない。価値など、どれほど積み上げたとしても、すべて、あのこと、で否定されるのだから。
強くなれば。
名をあげれば超えられるのだと思っていた。
あの男の名ばかりを呼び、己を認めない世界に。
瑕疵をつける。己のかたちの消せない醜く惨い瑕痕を。
傷つけて、亀裂を開けて、そうすれば誰もが己の名を知るだろう。
でもそれももはや幻想でしかない。
己に価値はない。
「殺せ」
死にたくなどなかった。生きると約束した。それでもせめて、何もかも失うなら、自分が理由でありたかった。殺されるなら、エースがエースであるために死にたかった。あの鬼の子であるが故に世界から処刑されるのでなく。
「…クソガキが、世間の価値なんざいらねぇよ」
低い呻きが、悲しんで、いるようだと思えた。おかしなジジイだなと、ふっと笑った。ガープを思い出す。どうして、こんなふうに構うのだろう。血のつながらない敵のこどもの面倒を見て。ふつう逆だろう。憎むのが当然だろう。厭うのが本当だろう。見ず知らずの若造ひとりに。
何故。
その理由。
本当は、それに狂おしいほど餓えていた。渇いていた。
「お前はおれが認めた」
なんの所以もないのに。
なんの由縁もないのに。
なにひとつ、返すものがないのに。
なにひとつ、得るものなどないのに。
なんの、価値もないのに。
「それを誇れ」
(おれたちは嫌われ者だから)
(あの人が、呼んでくれるのが嬉しいのだと)
(ただの言葉でも)
嘘でも戯言でもそう呼ばれただけで無条件に軋むこの魂が。愚かしく浅ましくそれを貪りたがるこの空虚が。何の根拠もないその言葉に。何の束縛もないその言葉に。
「おれの息子になれ」
天が回る。
持ち上げられて、その腕の中に抱きかかえられたのだとわかった。
抱擁。
見ず知らずの他人を懐に入れて。
親が子どもにするように。
己がおとうとににしたように。
対価のいらない親愛。
かつて、顔も知らぬ母がエースにしたように。
息が詰まる。額の裏が熱くなってわけもわからず苦しくなる。絞り出した声が揺れる。これがすべての楯だった。すべての言い訳だった。何もかも手に入らないことの、何もかも欲しがらないための、あらかじめ、ただひとつ以外のすべてを諦めるための。
「…あんたは、おれが何か知らない」
積み上げたすべてのものは、ただあのことだけで、無に帰す。
どんな大きな数字でもゼロを掛けたらゼロにしかならないように。
世界がエースの何もかもを否定する。
「おれは『白ひげ』だ。世界なぞ恐れるに足らん」
眦から溢れたものが頬を濡らしていくのをぼんやりと感じていた。それは頬の下の男の肩を濡らし、もう何もかもごまかせないのだと悟った。巨きな手が背を支えている。火傷していた掌。炎をつかんで失われないかたち。
劫火に耐えるうつわ。
「あんたが…おれの頼りになってくれるのか…」
回された腕に力がこもる。痛いくらいのそれに己の輪郭を意識する。生身の、剥き身の何一つもたない背。
「おれがおまえを守ってやる」
ならば。
かつて己が、いのちを賭けておとうとを守ろうとしたように。
かつておとうとが、非力なくせに己の、たから、を守ろうとしたように。
「…なら、おれが、あんたのたいせつなものをまもるよ……」
父を殺し、母を食い破って生まれた獣が。
自ら捕らわれる、
その檻の甘さ重さ。
己を戒める枷を自ら増やす。その背に、その手に、
だいじなものをたいせつなものをほこりをちかいをやくそくを
雁字搦めに縛り上げていく。そうやって己が形をつくる。
炎に呑まれても、自らの形を忘れないように。
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