いつか彼が、気が狂っても死なないのかと問うた。
狂死とはつまり衰弱死か狂した行動ゆえの自死か事故死であって、精神を病むことがそのまま死の原因になるわけではない。だから気が狂っても死なないのかという問いの答えはむしろ、誰も気が狂った程度では死ねはしないということだ。
否。
あのとき、確かに己は"父親"に殉じたかった。それを知らない人間が狂気の沙汰だと言うのなら、あのとき死んでいたらそれは狂死なのだろうか。己は至極まともで当然の判断をしていたと思いながら。
否。
誰かが死んで誰かが狂ったというのなら、そこにあったのは愛ではなく依存でしかない。狂気は他者との関係ではなく、自己との関係から生まれる。何よりも大事なひとを喪っても狂いはしないが、それにおける自己の責任を過大に評価してしまえば狂えるかもしれない。狂うことができるだろう、おのれの無力を刷き違えてしまえば。だがそれは幻想に過ぎない。
否。
彼が問いたかったのは、おそらく、己の能力では苦しみも永劫続くのかと問いたかったのだろう。他者から殺されることもできず、強靭な理性故自ら死ぬこともできないのなら、狂死こそが苦痛から解放される手段なのかもしれないと、そう考えたのかもしれない。
そしてその思いは彼自身のものなのかもしれない。彼は彼自身を自ら殺すことができなかったし、他人に簡単に殺されてやることもできなかった。気でも狂ってしまえば自ら海に飛び込めたのに。
否。
己は狂気のあまり海に飛び込んでも、鳥の本能が死に抗うだろう。
ヒトの狂気はもしかしたら、トリの正気にほど近いのかもしれない。
かつて覚醒がもたらしたものが死と破壊であったように。
否。
狂気に陥って、ひとのこころを手放して、それでもたらすものが、たかだか死と破壊程度でしかないのなら、己は己の正気をもってそれを行った方がましだ。
否。
それとも、もしかしたら自分たちは既に狂っているのだろうか。父親に連れられ末の息子を救いに行こうとした時点で。どれほどの犠牲を賭しても彼を連れ戻そうとした、限りなく真っ当で限りなく矛盾した結論を選んだ時点で。自らの手で敵へも味方へも死と破壊へ叩きこむことを選んだ時点で。病に緩慢に殺されるよりは、敵と戦い華々しく散ることを望んだ父親を止めなかった時点で。
あの場で唯一正気だったのは、来るなと叫んだ弟ひとりであったのだろうか。
ならば、あの問いに対する正しい答えはこうなのだろう。
狂って、狂い果てて何も分からなくなっても。
おまえたちが、ともに狂ってくれると。
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