(※「語るに落ちる」の続きみたいなものなので、そちらを先にどうぞ)
「おれは、誰にガキ扱いされてもかまわねぇけど」
深更に酒瓶ひとつをぶら下げて一番隊隊長の私室を訪うたエースは前置きも何もなくそう切り出した。埃っぽいグラスを戸棚の隙間から掘り出したところだったマルコは返す言葉をみつけられずエースを見た。黙ったそれを肯定と受け取ったのかエースは迷いなく続ける。
おれは、誰にガキ扱いされてもかまわねぇけど。
「あんたにされんのはすげぇこたえる」
乏しい明りを受けて躊躇いのない目が底光る。しらを切る努力を早々に放棄してマルコはため息をつく。正面突破で爆弾でも放り込まれた気分だ。マルコが大きく吐きだした息にエースは眉をひそめる。ああ、悪ィな怒ったわけじゃねぇ。せめてちょいと態勢を立て直させてくれ。頭の中でだけ言訳して、無言で多分苦虫を潰した顔でグラス二つに酒を乱暴に注ぐ。その動作を強い視線が追っかけてきて、ふっと揺らぐ。苦しそうに口惜しそうに呟く。
「おれは、あんたの頼りにはならねぇか」
爆弾どころか自爆覚悟の特攻だ。招き入れたことを心底後悔する。自室の中。エースに椅子を譲って、自分は机に浅く尻をひっかけただけ。狭い室内、外に逃れようとすれば絶対にすれ違わざるを得ない。自分で退路をふさいだもの同然だ。逃げ場をなくした気分で額を押さえて勘弁してくれと思わず漏らす。
「勘弁してくれ・・・そんなご大層な話じゃねぇんだ」
「マルコ?」
三白眼のくせにきらきらした目が下から覗き込んでくるのが居たたまれない。この歳まで極悪非道の海賊稼業をやっていて罪悪感で倒れそうとはどういうことだ。そんなもんはとっくの昔に童貞と一緒に海の底に捨てたんじゃなかったか。
「くだんねぇことだよい、・・・悪かった。悪かったからそれ飲んだら帰れよい」
「それじゃわかんねーよ。悪かったってンなら理由を言えよ」
「聞かすような理由じゃねぇよい」
「それじゃ納得できねぇよ!」
「ガキじゃねぇなら慮れ」
「ガキじゃねーからそんなんじゃ引っこまねぇよ!!」
しくじった。とにかくしくじった。悟らせるつもりじゃなかったしここまで噛みつかれると思ってなかった。知らずエースの尾を踏んづけていたらしい。酒で誤魔化そうにもあいにく一壜程度では酔いはしないし、梃子でも動かないという顔のエースを蹴りだすのも後ろめたいだけに気が引ける。少しばかり薄汚い感情を隠そうとしただけのはずなのに。
「最近、あんたなんか変だよ」
思わず手にしたグラスの底をデスクに叩きつけた。動揺は一瞬で、すぐに慣れた平静さが感情を覆う。激情を丸めこむ。分かりやすく。馬鹿馬鹿しく。大仰に天をあおぐ。わずかに肩を揺らしただけのエースを指の間から流し見る。視線があって、もう一度勘弁してくれと嘆く。
「おまえ、海にでて何年だ」
「…1年、とちょっと」
「ならわからないかもしれねえが」
浅くひっかけていた天板から身を起こす。横をすり抜けただけなのに、真っ黒い目玉がじっと追いかけてくる。
逃げねぇよいとからかえば、ばつが悪そうにうつむく。
粗末な椅子に長い手足をもて余している。背後に立てば黒いくせ毛の旋毛が見下ろせてあちこち跳ねる毛先が可笑しい。これはこどもだ。体ばかりが大きくなっても。汗で濡れた髪がうなじに張り付いている。癖毛の間からすんなりと伸びる首はまだ細い。血のような大ぶりの石をつけているから尚更。ひとつだけ尖った頚椎が薄い皮膚を押し上げる。
疼くような衝動をおぼえて目を細める。簡単に抑え込めるぐらいの。手綱をひけるぐらいの。悟られないことならいくらでもできるし。少しだけ見せて、からかうことができるくらいの。
少し。脅かすだけ。
「あんまり海の上で長いとろくでもねぇことばかり覚える」
後ろ首に触れて口づける。歯を立てるより先に、少年が弾かれたように振り向くとき、どんな表情をしようかと一瞬だけ躊躇って、選んだのは、いつもの皮肉な笑みだった。ちらりと唇の端を舐める。せいぜい厭らしく見えるように。
「やっぱりまだガキだねい」
朱を昇らせた顔が憤りで歪む。喚かれる前に顎を掴む。まだ細い頬の線を親指でなぞる。振り回される右手を左手で封じ、引き剥がそうとする左手は意に介すほどでもない。
強張り引かれる力を抑えつけて剥きだしの耳の間近、口づける距離で囁く。
「安心しろ。ガキに手ぇだすつもりはねぇよい」
無力な相手を弄る悪人の役どころ。ステレオタイプの方が相手は怒りやすい。本気ではないことも互いに織り込める。だから。
だから、すぐに振り払われると思っていた。振り払わせて、喚いて怒り狂うのを笑って、宥めて、からかって、詫びてみせて、それで誤魔化せると。
エースは振り解こうとしなかった。至近距離で互いの視線を覗きこんだまま、生じた空隙に知らずつくった笑みが消える。まるでそれと対称をなすように、エースの唇の端がつり上がる。いつも馬鹿みたいに大口を開けて笑うか、不遜に歪められていただけのものが、ゆっくりと弧を描く。牙を思わせる犬歯がわずかに覗く。
「あんたは」
一度瞬く、それだけで手の中のものが変わる。陽気でひたむきで大人びた気配は拭われたように消える。代わりに現れるのは、あからさまな飢え。夜の海で、炎の中で、喧噪の狭間で、血風呂と化した甲板で。焼き尽くしても尚満たされない。飲み干しても尚渇く。柔肌に溺れても尚埋まらない、海賊なら誰もが持っている、だが、誰もこの少年の底を垣間見たこともない。
「あんたコッチは食わねぇのかと思ってた」
「・・・エース、」
制止する声を取り繕えない。はったりを自ら剥ぐ間抜けさも許容する。それでもこの引力に抗わねばと感じる。濃い鳶色の虹彩と薄蒼い白目の境界が際立っていた。濡れた膜を重ねたようにひかってその奥に黒々と闇を呑んでいた。乱れた前髪のつくる影に、薄くあいた唇の隙間に、シャツから覗く鎖骨の隆起に潜む、引力。
「おれがあんたを見ていたのを知ってたくせに?」
知っていた。視線が追いかけてくるのを甘受していた。意味を意図的にはき違えようとした。己が劣情だと解釈していた。その方が都合が良かった。その方が制御できる。その方が知らぬふりして誤魔化すことができる。
「互いのつごうが合うならいいじゃねぇか」
「駄目だ」
これはこどもだ。これは何も知らない。否。これは若い優秀な雄で。自分の力を知っている。惜し気もない生命力と撒き散らす感情の強さに目が眩む。捕えていたはずの喉首は差し出されれば煽情的で火傷しかねないほどに熱い。伝わる体熱から離れようとすれば逆に手首を捕られた。餓えにぎらつく目はそのまま、にやりと笑んで唇を尖らせて見せる。
「イヤだってのは、イイってことだろう?」
生意気なクソガキ。組み伏せてねじ込んで散々に鳴かせたい。湧き上がる欲情が背骨を振わせる。乗せられるのは不愉快だと思うのに唆されることを愉しんでいる。さぞかし余裕のない面をさらしているだろうとわかっているが、それが相手を煽ることもまた知っている。もとより分の悪い勝負だ。自らが掘った穴に足をとられている。止める理由なんざ本当はない。これ、を止める理由はない。禁忌も倫理もない。愉しむことは簡単で、愉しめることを知っている。
ただひとつ。触れても隠しとおすことができさえすれば。
「あんたがガキ扱いすんのはかまわねぇけど」
かつて真摯に伝えた言葉を皮肉をまとって繰り返す。自らを揶揄する苦々しさが色香をまとわせる。そんな顔をさせるつもりはなかった。なのにそれにそそられる。堕落を強いている気分になる。眇めた眼差しが色を返している自覚がある。
「おれはこのまま隣に行くぜ?」
二番隊隊長室は空き室。三番隊隊長室は住人のサイズの問題で物置。四番隊隊長室に行かせるわけにはさすがにいかない。意地とプライドにかけて絶対に。
「まだ駄目だって言うのか?」
「…性質の悪ィ」
掴まれた手首を振り解く。後ろ髪を引いて、のけぞる顎に歯を立てる。差し出される舌を先だけ噛んで、焦れるそぶりを無視して耳朶を弄る。回る腕を拒まず、椅子を蹴倒してもつれたままベッドになだれ込めば、さらした喉を鳴らしてエースが笑った。
散々に煽ってきた若い獣をようやく敷布に沈めたときには夜は明けかかっていた。
半ば泥沼に浸かったような体を引きあげて、馬鹿やっちまったとしばし落ち込む。十代の性欲にまともにつきあうなんざ正気の沙汰じゃないと思うそばから、うつぶせた裸の腰と内腿ばかりについた赤い痕が我ながら辟易する。
手ひどく扱った。八つ当たりに近い感情だった。動揺する自身が愚かしかった。こどもに振り回されて。韜晦を暴かれて。劣情を曝して。もう、あの怯むほどに真摯な眼差しを向けられることはあるまい。
燐寸を擦った音で身じろぎする。眠そうな鳶色の目が煙草の先の炎を見て、己を見る。茫洋とした眼差しが、不意にしかめられる。まっすぐに己を射抜く。
「・・・あんたまだ、なんか隠してる気がする」
このこどもは。
本当はもしかしたらこの海賊団を変えるのかもしれない。いつか必ず寄る辺をなくす、この家族を救ってくれるのかもしれない。
この途方もない運命をもつこどもは、いつかその災禍の渦の中にこの家族ともども引きこむのかもしれない。本当は。
期待してはいけない。背負わせてはいけない。これは己の重荷を肩代わりするためにいるわけではない。これはまだガキだから。まだガキでいいから。世界の呪いなど担わせてはいけない。まだ。まだ、もう少しだけでも。
知られてはいけない。隠さなくてはいけない。
この少年さえ現れなければ、きっと。白ひげ海賊団は穏やかに滅ぶことができた。今、この海賊団を待つのは華々しい栄光か無様な敗北か、いずれにしろ何もかもを狂わせるものだ。そんな予感がする。
知られてはいけない。
傍らでゆるりとほどけるこの少年に。
「・・・おれは、あんたの頼りにはならないか・・・」
語尾が掠れたままことりと眠りに落ちる。瞼を伏せたその寝顔だけはあどけない。額に落ちる髪を払ってそばかすを撫ぜる。
この薄汚い感情を悟らせてはいけない。気取らせてはいけない。
起こってもいない未来を恨んでいる。訪れるかどうかもわからない明日を呪っている。
いつかこのこどもに心を奪われる日を憎んでいる。それが無惨に断ち切られる日がくることを恐れている。
いっそあのときあの船縁でころしてしまえばよかったと思っている。
煙草を吸いきって息を吐く。跳ねる髪をかきまぜて、眠るまなじりに唇をおとす。
自らの穴に蓋をする。鍵をかけてしまいこむ。分かりやすい情動で慎重に擬装する。
この薄汚れた感情を悟らせてはいけない。
これは、まだこどもなのだから。
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