この島は滅びた遺跡を何百年も抱えている。
自然に辿りつくことの難しいこの場所に、いったいどんな人々が住みどんな愛憎があったのか誰も知らない。それがいつ滅んだのか、なぜ滅んだのか誰も知らない。
マルコは時々想像する。己の『不死』が己が予想している以上に、そう、だったらどうすればいいのかと。つまり、彼は悪魔の実を食べてからも歳相応に成長して、あるいは老いていったから、きっと、海か海楼石に殺されない限りは、きっと老いて死ねるのだろうと思っている。
でも、『そう』でなかったらどうすればいいのかと。
もし、人の体が老いても、あるいは、己が「老い」に殺されたても、銃弾に心臓を貫かれてもすぐに再生するように、この身が再生するのではないのかと。
馬鹿な思考だとわかっている。生きるのが怖ければ海に飛び込めば良い。不死と死は常に背中あわせにある。
それでももし。もし、己が能力が、『そう』、だとしたら。この朽ちた遺跡程に長く、長く遺るのだとしたら。例え全てが滅んでも、ひっそりとその記憶を遺し続けることができるなら。
己は。
この記憶を遺すためだけに生き続けるだろうか。
浅いまどろみから目が覚める。
数時間の不快な眠りはろくでもない夢を見せる。
目が覚めても夢ではない、嵌ったままの枷は何時でも海の気配がして、ただその底に引きずり込まんと力を奪う。
石の床からきしむ身体を起こして周囲を探る。彼を起こした原因があるはずで、あるいは、と微かな希望を抱く。あるいは、何かの理由で既に戦闘は終結して。彼らは時をおかずして戻って来たのではないかと。
しかし、しばらく耳を澄ませてみたが望む気配をとらえることはできない。失望して目を閉じる。壁を背にもたれる。その壁から生える鎖は両手の錠につながる。壁にはりつけられるよりはましだが、身動きするためには重いその鎖をもひきずらなければならない。
ふっと短いため息をつく。毛布を引き寄せる。いつかの時のために。少しでも体力を温存したくて力を抜く。瞼を降ろす寸前に、ひそやかな挨拶が届いた。
「…やあ」
バツの悪さにとまどう子どものような声だった。
目を見開く、前に悟る。出現した気配に愕然とする。確かに直前までは存在しなかった者、がそこに在って。それに気付くことが今この瞬間まで、できなかった。
「マルコ、奇遇だな。元気そうだ」
場違いで間が抜けた緊張感の欠片もない。そのくせ飛び起きたマルコを見てほっとするように表情をゆるめる。底意などなにひとつ感じられない、見習いのガキが大人をからかうままの眼の光。三本の傷が醜く抉っても。
「それで、あんたはまだ、うちに来る気はないのか?」
――――― 十年前からずっと。
「赤髪っ…!」
憤りのまま呼んだ名に応えて、その男は嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑った。
薄暗闇の中に目印のような麦藁帽子とともに背の高い陰がたたずむ。足音ひとつ呼吸音ひとつ悟らせないまま。強大な覇気を操るものはまた、その気配を消すことにも長けている。わかっていても苛立たしい。動くだけでも苦しい身体をひきずり起こす。ごまかせるわけではないとわかっていてもこの男の前で蹲ってなどいたくはなかった。互いを隔てる鉄格子を握りつぶせば、物理的な衝撃と発する覇気に鉄の塊が震える。
「貴様、何故ここに居やがる!」
「うーん……、まあ、…たまたま通りすがって」
あらん限りの覇気を叩きつけても面の皮ひとつ傷つくような男ではない。
そっぽを向いて今にもごまかすための口笛でも吹きそうな態度が、悪ふざけではなく素なのだと。頭でわかっていても感情は激昂する。
「ふざけんなよい!」
恫喝してみたところで、繋がれた身には何一つ力がない。それを互いにわかっているはずなのに。それでも、叱られたこどもみたいに肩をすくめて見せた男が、「えーと…」と困り果てたように頬を掻く。
「あー…うー…。そう、そうだ!ここな、ここの遺跡の島、すげぇだろ?あんたもう探検した?」
唐突に違う話を振られて戸惑う。同意を求められてもなんのことかわからない。かぶりをふれば、なんだと気落ちしたように返ってくる。
「おれさ、この島をずっと探してたんだ」
とっさの言い訳にしては意外な話だ。確かに、ここは探しにくい場所で、正確な座標がわかっている自分たちでさえ、時期を選んでしか入れない。数年前に古い地図に従って見つけた。それから白ひげが気に入って何度か訪れた。気に入った理由を聞いたことはなかった。
「偶然みつけて、そしたら、そこにたまたま珍しい鳥がつかまってた。それだけだよ」
言いきって、男は「どうだ」という顔をする。
「…それだけだってんならこれを解けよい」
「駄目」
「なら白々しいことをぬかすんじゃねェよい。てめえ何の目的だ?」
ここは偶然辿りつける場所じゃない。今ここに来れる者は、味方から情報を得た者か、ここを嗅ぎつけた敵かの二択で。どちらであるにしろ、その厄介さが増すことに変わりはない。
「何だよ威嚇すんなよ、せっかく久しぶりなのにさ。…それに、おれは通りすがりのほうがいいんだろ?」
悪戯のタネをしぶしぶ明かすみたいに、気まり悪げに、何をしても悪童めいた印象しか残さない仕草で。不意に核心を吐く。
「…カイドウがむこうに参戦した。好機と見たらしい」
血の気が引いていくのがわかる。最悪だ。天竜人の私軍だけでも厄介だと言うのにのに。それに宿敵が加わるとなれば不利は決定的だ。思考のどこかで、楽観視していた。天竜人のような陸の人間に、海賊が海の上で負けるはずがないと。それも、カイドウが加わるとなれば話が変わる。長年敵対し続けた相手だ。ぶつかれば深傷を追うから小康を保っていただけだった。カイドウが参戦すれば流れる血の量は否応もなく増える。敵も、味方も。
「その情報を受けて、有象無象が雪崩をうっておこぼれに預かろうとしている」
「赤髪、これを外せ…」
「マムは中立。…海軍は静観。いまのところ」
この方面軍はガープ中将だ。海軍にありながらガープの天竜人嫌いは有名で、ならば静観もうなずける。上から動けと言われてもぎりぎりまでサボるだろう。それでも「赤髪」まで参戦―――どちらの側にしろ―――するとなれば、介入せざるをえない。「赤髪」は今や新世界で最も警戒すべき勢力だ。「海賊王」のクルーだったことは知らない者はいない。
「おれが表だって動けば、静観している海軍も動く。そうなれば泥沼だ」
「赤髪!これを外せよい!!」
その情報を白ひげは知っているのか。否、知っているからこの男がここに居るのか。知っていたからこそここに残したのだ。まるで騙し討ちのような方法で。己に知らされないまま。すべては織りこみ済みの。
「情報は必ず漏れる。あんたのオヤジさんが総力戦とはいえ、ここを空にしていくわけがない」
「クソ野郎!聞きやがれ!ここを出せってんだよい!!」
「おれはオヤジさんが帰ってくるまで留守番をして、帰ってきたらこの島を譲り受けるという約束をした」
そう言って、男はへらりと自嘲する。
「探してるとかさ。けっこう誰にも言ったことなかったのに、まったくあんたのオヤジさんは何でも知ってる」
「赤髪…っ!!」
「駄目だよ」
いっそ、穏やかな宣告とともにぐっと息が詰まる。物理的な力に上から押し潰されるような感覚。膝をつく。吹き飛ばされそうになる意識を懸命に引き留める。代わりに男が近づいて、縋る鉄格子の少し上を軽く握る。
「あんたはおれの言うことを本当に聞いてないんだな」
声音は快活なまま、なめらかに、何かが切り替わる。
「白ひげ海賊団が壊滅すれば、おれは労せずしてあんたを手に入れられるのに」
ガキと海賊と悪夢の境をゆれる人格がふいと軸足を移す。
「どうして、おれがあんたの願いと聞くと?」
(…「鳥」を争って白ひげと全面戦争するか?)
かつて、彼の「副」はまるでどちらでもかまわないとでも言うように彼にたずねた。
その物騒な提案を彼は軽く否定した。まさか、と。
赤髪のシャンクスはもともとたいして欲しがらない。
富も女も力も栄誉もたいして欲しがらない。
彼の欲するものは極論すればただひとつで、何かに執着することが、その欲するものを阻害することを彼はよく知っていた。
それでも。欲しいものはある。
崩れ折れる鳥。誇り高い者が、自らの意志を折られて膝をつく。枷と檻と純然たる力で押し潰されてそれでも見上げてくる目はギラギラと眩い。死にたがりの目だ。自覚していなだけ性質が悪く純粋な。
「都合の悪い他人の感情を、聞こうとしないのは昔からあんたの悪い癖だ」
美しいものも珍しいものも心を惹かれた。それが世にも稀な理屈―――家族という理由で他者のものであることも、惹かれる理由のひとつとなった。
―――どこにでも飛んでいけるものが、自ら囚われることを選んでいる。
視界を塞いで、耳を閉じて、自らの能力を閉じ込めて、ただ一人に心を傾けて。その相手がどれほど偉大だとしても。
「おれはずっと、言い続けている。あんたが欲しいと」
わざとらしく耳元で告げれば、強張った肩が揺れる。苦々しげに視線をそらす。食い縛った歯の間から呪詛のように吐き捨てる。
「なら、何でもくれてやる。何でもてめぇの好きにすればいい。だから、ここを出してくれ」
「…何でも?」
含みを込めて繰り返せば、嫌悪と屈辱に塗れた眼差しが、それでもどこか傲然と睨みあげてくる。
「……何でも」
その意志を枉げるのは愉しいことだ。嗜虐心は否定できない。これが、欲しいのなら良かったのにと思う。こんなわかりやすいものが欲しいのなら。
「明日の約束以外は、だろう?」
あからさまな欺瞞を指摘する。わかっていてしおらしく懇願して見せた鳥が舌打ちしそうなそぶりをする。可愛いなと思う。そういうところは本当に可愛い。
「マルコ、できない約束はするなよ」
比較的に真面目な忠告を、鳥は鼻の先で嗤う。
「さっきまでなら、てめぇの靴の裏でもケツの穴でもキスしてやったのによい」
格子越しに顔を見合わせて揃えたようにハハッと笑う。
「おれ、そういうのが好きそうに見えんのかなぁ」
心外だとひとりごちる。そもそもと付け加える。
「そもそも、あんたは何ももっていないだろう?」
鳥が虚をつかれて黙る。本能的に身を引くそぶりをする。檻の隙間から手枷につながる鎖を掴んでそれを止める。
鳥の無意識のわずかな慄えを感じとる。
「あんたの身は既におれの手の内だ」
穏やかに、事実を告げる。本当は。交渉の余地などない。条件の引換など必要ない。許可などもらわなくともこのまま引き寄せればいい。それが、欲しかったらよかったのに。
「あんたの命は悪魔のもので、あんたの意志は雛の刷り込みと一緒だ。馬鹿のひとつ覚えで、オヤジさんについていくことしか考えていない」
彼はこの鳥の来歴を多少なりとも知っていた。人でない時間が長かったことも。この鳥がその態度ほどに老成していないことも、もっとずっと愚かしく盲目であることも。
「あんたの誇りは奴隷の誇りで、あんたの情はまだひとのものですらない」
どうせ恋のひとつもしたことがないんだろう?馬鹿馬鹿しくからかえば天下の白ひげ海賊団一番隊隊長ともあろう者が肯定も否定もできない。
「あんたの魂をあんた自身が持っていない。あんたは引換にできるものを何一つもってない」
いっそ歌うように宣告して、それで、と小首をかしげて見せる。
「おれに何を呉れるって?」
鎖を掴む手を振り払われてあっさりと離す。鳥が萎えた足で後ずさる。どこにも逃げる場所などないのに。自らを壁際に追いつめて、まるで傷ついた動物のように威嚇する。
「そっちにいってもいいか?」
「…断る」
「うん」
抜く手も見せず錠が両断されておちる。用をなさなくなった扉を押して、身を屈めて格子をまたぐ。鳥の前で止まる。一振りで息の根を止めることのできる距離。
「…ひとの言葉を聞けよい」
「だって、あんたがいいって言うはずないから。触れてもいい?」
「……嫌だ」
「うん」
うなずいて、片腕を伸ばす。壁に背を押し付けて鳥がそれを避ける。とっさに腕をあげて防御しようとする。じゃらりと金属がこすれあう。無様で無力な抵抗。屈辱を噛んで震える。
「触んな!!」
触れるぎりぎり止める。それを鳥が止めたのではないことは、鳥が一番よくわかっていた。
「…触んな」
「だって、バツが悪いだろ。みんなに呆れられたよ。何にも邪魔がないのに、どうして奪わないのかって」
いつも欲しい欲しいといってるくせに。
「このままあんたを攫って、白ひげの背後から斬りつければいい」
信義も名誉もかなぐり捨てて。否、もっと上手くやれるだろう。卑怯と罵られることなく立ち回ることもできる。ここは勝者が正義を得る海だ。
「まともな海賊ならそうするっていうんだけどさ。でも、飛ばないあんたを奪ったところで意味はないし」
海賊の、無造作で強欲な手を触れるぎりぎりで止めたまま、まるで鳥の中に答えを見出そうとするように無遠慮に覗きこむ。
「…どうしようか?」
「てめぇの…」鳥が低くさえずるのに耳を澄ませる。「てめぇは何が目的だ…」
隠すように庇うように掲げられた腕の交差。
「おれは、あんたが飛んでる姿が好きなだけだ。どうせならおれの船に帰ってくればいいのにと思ってる。それだけのことだ」
だから、困ってると言う。赤く擦り切れた手首が哀れだと思うことに。
「だから、あんたが繋がれてるのを見るのは、結構悲しいな」
血で汚れた肘をとる。不死の鳥の流す血を舐めとる。
「赤髪、頼む…っ。後生だから、これを解いてくれ…!!」
「駄目だ」
「頼む…!!」
「あんたに魅かれているよ」
「…!頼む、から…」
「オヤジさんは、おれが決してあんたを奪って逃げたりしないと言った」
そうだ。何重にも防諜された電伝虫の先で、白ひげはグララララとその特徴的な笑い声を響かせた。
赤髪のシャンクスが、若くとも生粋の海賊が、奪うことが正義と、互いに知っているはずなのに。
鼻先に無防備にぶらさげて見せた。
「間抜けにも程がある」
彼の圧倒的な力の届かない場所に、彼が大事とするものを他人に預けておきながら。その他者が、彼の大事なものを焦がれるように欲していると知っていながら。
否、白ひげは何よりも良く知っていた。
「シャンクス!!」
悲鳴のようだった。この鳥が彼の名を呼ぶのは
「…シャンクス、…お願いだ。頼む……」
意地も誇りも投げうち身も世もなく哀願する。
その献身が。誰のためのものかを考えるだけで、力ずくでなど奪えるはずなどなかった。例え相手が死しても、不死の命をそのためにさえずるような鳥だ。
そんなものを手に入れて満足するような、易い望みなどもっていなかった。
そこまで道化にはなれなかった。
「――――間抜けはおれか」
ひとりごちて笑う。まともな海賊のやることではない。仕方がない。わかっている。
「…船長命令って嫌だよな」
「シャンクス…」
「……助けに行きたいよな。おれもそうだった。船長って人種はなんであんなに勝手で、何でもかんでも自分で決めちまうんだろうな」
ゆっくりと下げられた腕の間から薄青の眼差しが見つめ返す。
「いつだっておれたちに、自分たちのためには死ぬなとしか言わないんだ」
かつて、失った者として。かつて悲嘆を知った者として。ただ愛おしげに目を細める。
鳥が。脆弱な翼のその下に。なにもかもを必死で守ろうとして、寄る辺のない顔をする。
悠然と空を舞う鳥の羽は、近くで見るほどにぼろぼろで。
かつて、なぜ飛ぶのかと問うたら問い返された。
なぜ歩くのかと。
鳥がはばたくのは自由を求めるからではない。ただ、それしか知らないのだと。
「あまり苛めるな。…余計に嫌われるぞ」
「ベック」
地下に湧いたもう一つの気配が長銃をかついだ影をとる。自らの腹心の名を呼んで、ふと、男の中で何かがふたたび切り替わる。何も言われずとも合点がいったように頷いた。
「ああ…やっぱり来たんだな。どこだ?」
「直属らしい。四百」
「少ないな?沈んだか?」
「そうだろうな。ここは陸の人間が気軽に踏み込める場所じゃない」
珍しい腹心の饒舌に、ハハッと笑う。闊達な海賊の顔で。さらにいくつかの報告を受けて、いっそ忌々しげに鼻を鳴らす。
「あんたのオヤジさんは正しすぎていやになるな」
報せに身構える鳥へ、今日で一番底意地悪く笑って見せる。
「あんたはもともと囮だよ」
驚愕を楽しむ。ばらすなとは言われていないから、これぐらいの役得は許されるだろうということにする。
「ここと、あといくつかの偽情報を流して向こうの戦力を分散させてる。寄せ集めの軍などすぐに功を争って分裂する。オヤジさんとぶつかるのは貧乏くじを引かされた相手だけだ。そして、カイドウは自分が貧乏くじを引くのは耐えられない。旨みがないとなればすぐに退く」
そして、今得た報告はその目論見が上手く嵌りつつあることを伝えていた。規模で圧倒していたはずの敵は、それを小勢にわけることで優位を失おうとしている。しかも、天竜人が鳥を捕える功を誰かに渡すわけがない。中核が奪取に赴けば、烏合の衆がまとまるはずもない。
「情報は海軍にも流してある。奴らが『関係のない島』を襲おうとすれば、それは拳骨ジイさんの獲物だ」
もっとも、よりによって難所ばかりの島を選んであるから、そこまで辿りつくのにどれだけ沈むかはしれないが。所詮海賊ではない天竜人の私軍に好きにできるような海ではない。
「あんたの家族を責めてやるなよ。いつものあんたなら無策で正面から殴り合おうなんざ考えないだろう?冷静さを欠いたあんたが悪い」
シャンクスの左手がするりと右腰のサーベルを引き抜く。短い裂帛の気合とともに両断された枷が重い音をたてて床に落ちる。身構える間もない。鳥に傷一つつけることもない。なめらかな切り口を見せて転がるかたまりは、まるでただの石くれのようだ。
金剛石より固い海楼石を斬れるのは、この世では鷹の目とこの男だけだとわかっていても。
呆然と立ち尽くす鳥に当たり前のように告げる。
「すぐに静かになる」
抜き身のサーベルを下げて悠然と身を翻す。飛ぶ鳥に枷も鎖もつけないまま背を向ける
ふと、離れがたいように振り返る。いっそあどけないしぐさで微笑った。
「ここで待ってろ」
白ひげ海賊団と天竜人の私軍の戦いは、白ひげ海賊団の完全な勝利で終わった。海戦はただ一度。圧倒的有利な数を揃えたはずの天竜人の軍は、戦いが始まってみればすぐに主力の抜けた寄せ集めの脆さを露呈した。恃みとしたカイドウは私軍があてにならないとなれば、すぐさま撤退に転じ、あっさりと「味方」を見捨てた。元より漁夫の利を狙っていただけなのだ。まともに対峙する気など端からない。報奨金と名声に憧れた海賊が個々に奮闘したが、連携もとれないそれらを白ひげ海賊団はひとつひとつ丁寧にすり潰した。
天竜人とその親衛はその隙にいち早く逃れたが、戦場で悪鬼のように大刀を振るい海を揺るがす白ひげへの恐怖は焼きつけられた。少なくともしばらくは何もできはしないだろうという情報が、極秘に海軍から流される。
それをもって、白ひげ海賊団は凱旋を決める。彼らが鳥の元へ。
帰って来た彼らを迎えたのは、一羽のふてくされた鳥だった。
美しく青いその鳥は、丸めた自らの羽の中から優美な首を伸ばして、鍵の壊れた扉をあける彼らを見つめた。
おそるおそる見守る視線を悠然と無視して起き上がり、鉤爪のついた二本の脚で開いた扉をくぐる。そのままとことこと、いっそ不自然なほどに達者な足取りで石造りの通路を歩き、半ば広げた羽根でバランスをとりながら階段を昇る。地上に出ると、窮屈にたたんでいた羽根をばさりと大きくひろげ、軽く羽づくろいする。陽光の下きらきらと青い幻の炎がちらばる。陽炎のように美しい光景を誰もが無言で見ている。長い嘴で羽根を整えた鳥はおもむろにその翼をひろげた。ひろがった翼が空気を含む。たっぷりと。空を飛ぶための力を。地上から解き放たれる力を。
ばさりと、力強い羽ばたきが大気を撃つ。
誰かが、あ、と呟き、誰もが高く舞い上がる鳥を見上げる。
鎖から解き放たれた鳥が、天空に飛び立つさまを。
天に、誰も手の届かない高みに。
あまりにも呆気ないその光景に
向かう先は北で、何人かの人間が、それが赤髪海賊団の進路だと気付いた。
気付いて、何ひとつできず、鳥の姿は瞬く間に青い空の中に溶けた。
赤髪海賊団の船はいつだって陽気で。
それはかの船の頭領が陽気だからではあるが、その当人が不機嫌なときだって大概に陽気ではあるのだった。件の島を離れ、どうしようもなくやさぐれた船長を抱えた船はそれでも何事もないように一路北を目指す。
見つけたのは見張り台で望遠鏡を眺めていた船員で、報告をする間にもその影はみるみるうちに近づいてはっきりとした形をとる。
高度を下げた鳥は途中から半ば人のかたちをとり、急ぎ甲板に上がってきた船長の目の前で、最後に羽根の名残だけ残して降り立った時には既に白ひげ海賊団の一番隊隊長のかたちを繕っていた。
「…うちに来る気になったか?」
「ばか言うな」
鎖につながれ哀れに懇願していた者とはまるで別者のように。あるいは、鎖で繋がれていたときよりも、もっと、どこにも縁のない不確かなもののように、人とも鳥ともつかない眼差しでさえずる。
「赤髪の」
この鳥を。
籠に入れることも、籠から出すこともできないのだ。
赤髪のシャンクスは、誰からも自由で、誰からも縛られない。そんな人間が、鳥など飼えるわけがない。閉じ込めて、世話のひとつもできないで、死なせてしまうのが関の山だと、きっと誰かなら言うだろう。
引き寄せられて口づける。
引き寄せかけて逃げられる。
力ずくで。捕えてしまえという抗いがたい誘惑を退ける。
知っている。捕えてしまえばそれは黒い鳥の屍骸に変わるのだと。
鳥もまた。知っている。捕らわれたそれは、ただ、悪魔の実という呪いの残骸だと。
自ら一歩退いて、バイバイと手を振る。
「またな」
「……、また」
ひろがった人の腕が鳥の翼になるのを目を細めて眺める。
来たときと同じく鳥は呆気なく去った。あてのない約束ひとつだけ残して。
水平線のかなたから現れた鳥を迎えたのは、彼の家族たちのみっともなく泣き腫らした顔と、嵐のような謝罪の言葉と、何もかももみくちゃにする抱擁で。
鎖のひとつもないのに、どこからも逃げられず甘んじてそれを受け止める。
欠けた顔を数えてみようとして、彼らが負った傷を数えようとして、止める。
いつか。彼らのために死ねばよい。いつか、助けてくれるなと叫ぶ誰かのために命を捧げればよい。
そのための命ならいくつも持っていて。
きっと、そのためにこの身はあるのだから。
きっとそのための自由を、今手にいれたのだから。
了
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