波に呑まれて、気を失って、目が覚めたら、ほとんどの後片付けは終わってしまっていた。甲板にその他大勢と一緒に寝かされていたエースは、起きてすぐに白ひげを見舞って(主治医とナースによって自室に軟禁状態)、二番隊の損害を確かめて(軽微)、船を守った他隊の隊長に礼を言って(船尾で波を割っていたらしい。そのおかげでモビーディックは無事だった)、その後ようやく医務室で昏々と眠る今回の元凶である鳥を訪れた。
医務室には先客がいた。四番隊隊長サッチはちょうど一番隊隊長の顔に「バカ鳥」と書いていたところでその大人げない稚気に少し呆れる。
「おまえも書く?」
「…遠慮しとく」
「ふうん」
「あのさ、…覚醒って、何」
それは一度既に口にした問いで。でも、知りたいのはもっと別のことで、それはサッチにもわかっているはずだった。サッチは椅子に座ったまま上目で窺うようにエースを見て、ふと諦めたように息をつく。
「…わかんねぇ。わかんねぇが、…こいつは初めその姿でおれら、白ひげ海賊団の前に飛んできた。もう三十年近く前の話だ」
「…前に言ってた話」
「そうだ。そんときはもう息も絶え絶えって感じでな。少し暴れたがオヤジの一撃ですぐに船に落ちて動かなくなった。近寄ってみたら鳥の代わりにガキが寝てるってんで大騒ぎだ。しかも一週間くらい寝込んで、ようやく起きたら記憶がほとんどない。そのうち新聞で、でかい青い鳥が街ひとつ潰れたって記事がでて、前後の事情はしらねぇがまず間違いなかろうってな」
「街ひとつ…」
「あれが陸で暴れてみろ。普通の軍隊じゃ止めようがねぇ」
「それで…?」
「それだけだ。本人の記憶がほとんどねぇんだ。何がきっかけで起こったかすらわからねぇ。ゾオン系の覚醒に関して文献にはいくつか過去の記録が残ってたらしいが、記録は残っても制御する方法がわからねぇ。一時期海軍がその方法を見つけたって噂も流れたが、実戦に投入されたって話も聞かねぇしな」
「……」
「まあ正直油断してたさ。今まで一度も起きなかったしな。この島に何かあったんだろうな。…もう津波で全部流されたかもしれねぇけど」
締めくくって、後は本人に聞けと立ち上がる。
「サッチ、…話してくれてありがとう」
「別に秘密ってわけじゃねぇよ。昔いた人間なら誰でも知ってる」
「そっか」
部屋を出ていくのとすれ違って、なんとなしに見送れば、扉の前でぴたりと足を止めた。
「…だから…まあ、昔を知ってるとな、ちぃっと不吉で…」
背中を向けたまま、リーゼントをきめた頭をがりがりとかきむしる。
「…前触れなく来たときみたいに、何の予告もなくいっちまうんじゃないかってな。そんなわけねぇのにな」
行くなと、叫んだ声を思い出す。必死な。悲痛な。
「あいつを止めてくれて助かった。いなくなっても地の果てまで探すけどな。…でもまあ、助かった」
それは、親父にも、他の隊長からも言われたことだった。皆が口をそろえてエースがマルコを止めたのだと言う。
「……おれ、何もしてねぇよ」
あのとき、自分の力は何一つあの鳥に届かなかった。波に呑みこまれる寸前に目があったのは偶然だと思っていた。できたのは、飛んでいこうとする鳥を、闇雲に呼んだだけ。
「おまえが使ったのは覇気だ」
ちらりと視線だけ振り返って、サッチが渋く微笑う。
「覇王色の、って言われるな。それにあいつが従った。そーいうこと」
使い方はオヤジに聞きな。そう言って、今度こそ開けた扉をくぐってサッチが姿を消した。
告げられた内容は、けっこう相当に驚くことだったけれど、エースは先刻までサッチが座っていた椅子にまたがって、確信のままに枕元に呼びかけた。
「マルコ」
うっすらと開いた薄青の目がエースを見て、それがトリのものなのかヒトのものなのか判然とせず、少し心配になる。
「起きてただろ。おれのこと忘れてねぇ?」
半日で削げた頬がかすかに動いた。それが無音でエースと呼んだようで、一気に安堵する。掠れた息を何度か吐いて、ようやく声になる。
「……体が動かねぇ」
「無茶苦茶やったからな。…何か覚えてる?」
「………いや、崖下に黒い花の群生を見て…それっきりだ」
「状況説明しようか?」
「…たぶん、わかるよい。…二度目だしな」
かろうじて持ち上げた手を透かし見るようにかざす。
「……誰か、死んだか」
酷い、言いようだった。思わず強い口調で否定する。
「誰も死んでなんかいねぇよ。怪我人は出たけど、みな無事だ」
「そうか、そりゃ良かった。…ここを追い出されずにすむよい」
絶句して、荒げかけた声を呑みこんで、息が苦しくなる。酷い言いようだった。わざと自分を傷つけるみたいな。
そして、それは本当のことだった。一人でも死なせていたら、マルコはきっと自らを追放するだろう。誰が止めたとしても。
「あんたが、どっかに行ってしまって、戻ってこないんじゃなかと思ったら怖かった」
意識がない間のことを責めるのはお門違いだとわかっていても。サッチが面と向かっては言わず、マルコも聞かないふりをした感情を、エースはきちんと口にする。そうしないと、自分の中に溢れる衝動が行き場をなくす。名前のつけられないものが渦を巻いて窒息する。
「起きても、あんたが言ってた昔みたいに、おれたちのことも全部忘れてたらどうしようかと思ってた」
何も返してこないマルコに、八つ当たりだなとエースは自嘲する。多分きっと自分は思っているより動揺しているのだ。この男が去るという想像に。ある日どこか手の届かないところに行ってしまうかもしれないというビジョンに。
海賊なんざ、明日には死んでいるかもしれないのに。
それでもいいと思っているのに。
「…あんたの、むかしの話が聞きたい」
過去とか。未来とか。そういうよけいなものを。
「昔か……」
額に置かれた掌がマルコの顔を隠していて、どんな表情で話し始めたのかわからない。
「…昔な、おれは"人間"じゃなかった。ずっと…自分のことをトリだと思ってたよい。ものごころつく頃に悪魔の実を食って、たぶん、それからずっとトリのままでいたから、自分が人間だってことを忘れて、人間だった頃のことも一緒に忘れちまった」
淀みのない口調だった。何一つ、躊躇うことのない。
「トリでいると考えることもないから、何も覚えておく必要もない。トリの飯を食って、クソして、寝て、その繰り返しだ。時折、飼い主が代わっても、首輪が代わっても、何もかわらない。いや…鳥ですらなかったかもしれねぇな。その時までたぶん、狭い部屋ん中で、飛んだことすらなかった。
「何のきっかけか暴走して、あとは…見ての通りだ。力尽きるまで何もかもぶち壊して、ようやく人に戻れた時は何も、記憶や、言葉や、人として当然もってるものを全部落っことしてたよい」
「何もかも、ここでもらった」
それは、エースにもわかる感情で。それでも相槌を打つこともできず聞きいる。ただ、と苦笑いする男を見つめる。
「ひな鳥の刷り込みみてぇに、ここしか知らねぇから。ガキん頃は、よくわからなくなった。自分は惰性でここにいるだけじゃねぇかってな。選んでるんじゃなくて、選ばされてるんじゃねぇか…檻が、見えないだけじゃねぇか……。自分が能力者じゃなけりゃ歯牙にもかけられてねぇんじゃねぇかってな。それでよく何も言わずどっかに飛んで行って、戻ってきて。よく…心配させた」
予告もなくいっちまいそうで、そうもらしたサッチを思い出す。何度不安に襲われたことだろうか。飛び去る鳥の幻影。手の届かないところへ。
「オヤジに諭されて、あいつらに構われて、…いつか帰ってこれることに安堵するようになった。…まあガキだったよい」
少しだけ、バツが悪そうにまとめて、ようやく顔を覆う掌を外した。
「それでも今回みたいなことがあると、厄介だなァ…。」
言葉を止めて、ゆっくりと身を起こそうとする。苦しげな顔に慌てて止めようとしたら、逆に止められた。
「大丈夫かよ」
「当たり前だ」
息を吐いて、エースの顔を見て、すぐにその胸に巻かれた包帯に気付く。
「…怪我させたかい」
「や、たいしたことねぇよ。あばらが二本くらいいっただけだ」
「…ふ。油断してんじゃねぇよ、二番隊隊長殿」
「うっ…!あんたなぁ、大変だったんだぞ!でけぇし飛ぶし再生するし!!」
「覚えてねぇなァ」
「っ!」
意地悪く口の端を上げる、その仕草が。独白を終えて、すぐに長兄としての立場を被ろうとする男が、悔しくて、悔しくて、悲しかった。胸座を掴んで引き寄せる。誰かを従わせる力があるというのだったら、まさに今この時に使いたかった。
「あんたが、飛んでいっても、誰を死なせても、何もかも忘れてても、…皆、あんたを地の果てまで追いかける」
そう宣言したエースに、マルコは、素の、ただの一人の海賊として、ほろ苦く笑った。
「何もわからなくなっても、誰を死なせていたとしても、おれにはここしか帰る場所はねぇよい」
終
大家族の長兄は、家族が一番大事なのと、逃げ出したいのとに引き裂かれるイメージ。
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