エースがその荷を検めたのは、単純にその日、彼の小隊にあてがわれた仕事だったからだ。海賊船が大挙して押し寄せても気にもとめない街の、猥雑な喧噪に満ちた港。その港の中でもひときわ大きい白鯨が、巨大な腹の中に次々と大量の荷を飲み込んでいく。いっそ壮観なほどの光景の中で、エースを含む一番隊の小隊長が次から次へと運び込まれる荷をチェックしていく。
食糧や水、油といった船の生活で使う消耗品だけではない。積み込まれていくのは大量のさまざまな「商品」だ。多くの海賊がそうであるように、白ひげ海賊団も交易を行っている。立ち寄った国の特産物を仕入れ、遠くの街で売りさばく。未知の海を拓き、危険な航路を越えてくる対価として荷には高価な値がつく。それによって利益を得、次の航海の資金にしている。さらに武力を背景にして、より高値をふっかける手合いをまさに海賊と呼ぶのだろうが、白ひげ海賊団はそういった阿漕なことをほとんどしない。まるで当たり前の商人のように信頼第一、明朗会計な取引だ。
そういったことを最近になってエースは知った。あいにくスペード海賊団は、ほとんどすべての収入を他の海賊を略奪することで得ていたから、エースは商売人のようなこの手の仕事をやったことがない。海賊が商売かと正直最初は鼻白んだが、十数人のスペード海賊団ならいざ知らず、千六百人を略奪だけで食わせていけるかと言われれば反論の言葉もない。
とはいえ、作業自体は単純なことだった。運び込まれる荷のタグを確認し、書類と突き合わせる。数を数え、記載された数とチェックする。無作為に選んだいくつかの箱を開けて、その中身を確認する。白ひげ海賊団相手にごまかす輩もいないだろうとは思うが、サッチ曰く、商人は騙せるものなら悪魔でも騙すのだそうだ。過去によっぽど痛い目でも見たのかもしれない。
山のような荷の中でも、その箱は特殊だった。
木箱の側面には水濡れ厳禁のマーク。湿気だらけの海の上で少しでも長く耐えられるために、隙間という隙間にまんべんなく塗りこまれたコールタール。書類上の記載は 「medical supplies」。後に続く略語らしい綴り、"SAPT"。馴染みのない言葉はすぐにはわからない。
「エース、それはいい」
意味を思い出す、わずかなタイムラグに、隣で同じ仕事をしていた同僚の声がかかる。気をとられて、書面に書かれた殴り書きの文字を見逃す。「Don't Open」
小隊の部下が機械的に慣れた仕草で木箱の蓋を剥ぐ。流れ作業のまま、現れた麻袋の端にナイフをつきたてる。こぼれおちた純白の粉を見て、エースはようやく、その言葉の意味に思い至った。
「マルコ!!」
文字どおり、火の玉となって飛び込んできた少年―――青年とは言い難い、の剣幕に一番隊隊長と四番隊隊長がそろって振り向いた。
「あのクスリはいったい何なんだよ!!」
地上から甲板まで半分炎になって跳んできた少年はその勢いのままマルコに詰め寄ろうとする。間一髪で両者の間に割り込んで、サッチが宥めるように呼ぶ。
「エース」
「どけよ!」
「阿呆かおまえ。小隊長が敵襲でもないのに泡食って走んなよ。まわりが何事かと思うだろうが」
普段はおちゃらけたサッチに正論で諭されて、エースがぐっと黙る。しかしすぐに昂然と顔をあげて、サッチの後ろにいるマルコを睨みつけた。
「あんたらの船は麻薬も運ぶのか?!」
問いのかたちの弾劾だった。返答次第では容赦しないという気迫に満ちている。
「答えろよ!!」
何でも運ぶのが海賊船とはいえ、そこにはおのずとランクがある。稀な香辛料や貴石等、保険会社がしり込みする高額商品を保険なしで運ぶのが最も「クリーン」な仕事だ。まともに商えば関税の高い酒・煙草などの嗜好品、そして扱いに世界政府の許可がいる武器は比較的一般的。動植物を含めた、それぞれの国における輸出禁制品や盗品を扱う者は一段低く見られる。そして同じ海賊の中でも軽蔑をもって扱われるのが、麻薬と「人」を商う者だ。
安易に莫大な利を生むが、だがそれゆえに誇り高い海賊には嫌われる。無法が法であるからこそ、彼らは掟と矜持には敏感だ。国や世界政府の定めたルールはいくらでも破るが、人の道に外れることはしない。古い海賊であればあるほど、その傾向は顕著で、白ひげ海賊団はまさにそれを体現しているはずだった。
「……あれは医薬品だよい。そう書いてあっただろい」
射殺さんばかりの視線を受けて、マルコは平静に答えた。動揺も後ろめたさも微塵もない。
「ごまかすなよ!おれは無学だけど、あれが何の略かぐらいわかる。あれがヤクの中でも最低最悪なシロモノだってこともな!」
そのドラッグは一時世界中を席巻し、「悪魔のクスリ」とも「神のクスリ」とも呼ばれた。強烈な快楽と凶悪な常習性。そしてもう一つの、ある特徴的な性質に、闇市場は熱狂した。貴族から市井の労働者まで中毒者が相次ぎ、多くは廃人になった。世界政府の取締もあってか、流通量は減り価格は高騰、総じて下火にはなっているが、いまだ金持ちや、軍や海賊の間では根強い人気を誇る。エースがゴミ山にいた時、ちょうどそれの狂乱期だった。ゴミ山にすら、中毒者はいた。
「無学ならもうひとつ知っておけよい。ありゃここでしか育たない植物からつくられていて、実際に医療用に使われている。卸す先も医療関係者だ」
「あんたあれがどういう使われ方をされてんのか知ってんのか?!」
「降ろした先でどこに流れて、何に使われていようと、おれらの知ったこっちゃねェよい」
「…っ!!」
「ガキみたいな寝言を抜かすなよい。武器も扱えば、クスリも扱う。他人が嫌がるモンを運ぶから海賊なんじゃねェか」
それは確かに海賊の「正論」だ。ランクだ格だと言いながら、禁制品を扱う以上、上等も下等もない。船を走らせるには金がいる。元より汚れた金なら、どう汚れていようと一緒だ。
「・・・っオヤジは知ってんのかよ!」
「馬鹿ぬかせ。この船にオヤジの知らねェ荷なんざ麦一粒だって積むもんかよい」
いっそ誇らしげにマルコは応える。一片も悪びれないその態度に苛立つ。
「あんたたちは、こういうのはやらねぇと思ってた」
怒りと失望をにじませてエースは唸る。
「家族全員を養うのに綺麗ごとばかり言ってらんねェよい」
マルコが意地悪く唇の端を歪める。
「てめぇの食費も含めてねい」
普段なら軽口として聞き流すことが、そのときばかりはできなかった。再び跳びかかろうとするエースを、間に入ったサッチが力づくで抑える。
「やめろエース!おい、マルコ、おまえもいい加減に…」
もみあうサッチとエースからすっかり興味をなくしたように、マルコは手元の書類に目を落とす。数枚繰って、さらさらと何事かを記して、まるでもめごとなど何もなかったかのように告げる。
「エース、てめぇは冷静じゃねェよい。うっかり燃やされちまったら大惨事になる。二番隊を手伝え。そっちには別のやつを寄こす」
「!おれは…!!」
「命令だよい」
「っ!わかったよ!」
エースはサッチを突き放すと、行儀の悪い罵りを残して、足音高く立ち去る。
疲れ果てた風情でその背を見送って、サッチはため息をついた。
「マルコさーん……なんでわざわざあんなこと言うんだよ」
「本当のことだろい」
「そうだけどさぁ…。『あんたらの船』と来たもんだ。あいつ下りるとか言い出したらどうすんのよ」
「そんなバカならこっちから願い下げだよい」
「えー・・・せっかくちょっと馴れてきたのにー。さっきもまっすぐにおまえんとこ来やがってさぁ」
積み荷の責任者は本当のことをいうと主計長を任じられたサッチの役割だ。もちろんマルコはすべてを把握しているし、船長の白ひげから決裁権を全面的に委任されていることに間違いはないのだが。エースはまっすぐにマルコの元に来て、まっすぐな怒りと失望を脇目もふらずに伝えた。
「・・・・・・」
「邪険にあしらわれちゃってかぁわいそーに」
わざとらしくシナをつくる悪友の尻をマルコは無言で蹴りあげる。
「・・・今日の『アレ』にあいつも連れて行くよい」
「げ。まじ?」
「まじだよい。用意は任せた」
オーライと片手を挙げて、サッチはまるで本心のようににやついた。
「荒れなきゃいいねぇ」
*
憤懣やるかたないまま仕事を終えて、食堂に向かう途中でサッチに捕まった。空腹もあって苛ついていたから、刺々しく何の用かと問えば、飯はとびきりのを食わせてやるからもうひと仕事しろと言われて布の固まりを押し付けられた。
そうしてエースは今、正装して豪勢な晩餐会の会場にいた。
モビーディックの甲板より広い空間に、着飾った人間がひしめいていた。ふんだんに供された色とりどりの料理と高い酒の数々。溢れる花と音楽。さんざめく会話と笑い声。エースにはここにいるのが、貴族なのか市民なのかはわからない。そもそもこの国が王制なのか民主制なのかも当然興味はない。ただ、一部の富裕な特権化された人間が、そのことにさして疑問も抱かず当たり前のようにして、その地位や富を他人に顕示する、そういうところだった。それだけは間違えようもなくわかった。そういった場所はどこにでもあって、どこも同じような匂いがする。彼が幼い頃に住んでいた場所の近くにもそういう人間はたくさんいたし、彼の"兄弟"はそんな人間を心底嫌っていた。
(・・・海の上だったら、全部獲物にしてやるのに)
周囲から向けられる好奇と恐怖と侮蔑の視線に目を眇める。貴族の武装商船なんてものは、たいがい海賊よりタチが悪いから。海の上で出会ったならば、ボートひとつを慈悲に身包みはがすのをためらったりはしないのに。
しかしあいにく、今エースに与えられた責務は略奪ではなく、白ひげの護衛だった。
広い会場の上座。一段高い位置に座すのは、一人は、この国の権力者なのだろう。豪奢な衣装をまとった一目で貴族と知れる壮年の男だ。そしてその隣に据えられた大きな椅子に、白ひげがまるで王侯貴族のように傲然と腰を降ろしている。最上級の織物で誂えられた白い礼服に海賊コート。威風堂々たる姿は、体格の差も相まって、どちらが客でどちらかが主だかわからない。さらに両脇には黒く正装した白ひげ海賊団が影のごとく侍している。
左手には一番隊隊長。右手には三番隊隊長。不死の象徴である幻の鳥と、不滅の具現である金剛石の盾。それを両脇に置いた白ひげは、まさにここにある誰よりも「王」であった。
さらに、そこを中心に半円を描くように、数人の隊長格が散らばっている。とてもじゃないが、さらなる護衛が必要だとは思えない。実際、着いてすぐに、しばらく適当に飯でも食ってこいと放免されて、仕方がないから、半円の端、会場の入り口と、白ひげが両方視界に入る位置の壁に陣取って、周囲の視線を跳ね返しながら料理をつまんでいるという現状だ。
苛々した気分で食べる飯はたいして美味くもない。自分が礼儀作法だのこういった場での振る舞いだのを知らないのは十分承知しているし、誰かのお仕着せであるこの服装が身にあっていないことなどわかっている。別にそれで引け目を感じることなどない。普段なら絶対にないが。
頭の上から爪先まで眺められて、視線を逸らされて、次の街できちんと誂えるかよいとか言われたら恥ずかしさを通り越して殺意が湧く。人にみっともない格好をさせて連れてきておいてその辺で飯でも食っていろと言われれば、滅多にしない後悔などに襲われる。正直、サッチの誘いなど撥ねつけてしまえば良かった。四番隊の隊長は話のタイミングがいつも絶妙で、毎度何故か邪険にできない。
「よう、エース。ちゃんと食ってるか?」
まさに、ちょうど考えていたところで声をかけられて、エースは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「何だよ機嫌悪ィなぁ。折角の色男が台無しじゃねぇか」
そう言って、エースが崩した襟元に手を伸ばしてくる。舌打ちして届く前に振り払った。
「窮屈なんだよ。胸糞悪ィ。来なけりゃ良かった」
「んー?飯美味くないか?海の上じゃなかなか食えねぇモンばっかりだろ」
「うちのコックのがよっぽど美味い」
「ふーん?」
ふざけた髪型と海賊傷でブラックフォーマルをきっちり着こなした男がにやりと笑う。
「まあ、『うち』のコックは確かに別格だけど、いいから食っとけよ。でなけりゃ食いっぱぐれる」
「・・・・・・おれ居る必要ねぇだろ。あんたらだけで何とでもなるんじゃねぇの」
護衛と言われて連れてこられたが、ただぼんやりと立っているだけだ。確かに広間を囲むような不穏な気配は感じ取っているが、隊長がこれだけそろって対処できないはずがない。この場でエースだけが居る理由がない。
エースをわざわざ護衛に指名したのは一番隊隊長だとサッチは言った。あの騒ぎの後で、隊長格だけがそろう場にエースを連れてきた、その真意を深読みしようとする理性と、侮ろうとする感情がせめぎ合う。
「興味ねぇの?このパーティーが何なのか、とかさ」
「別に」
それも半ば嘘で、半ば本当だ。
一国の上流階級が海賊と繋がりがあることなど珍しいことでもない。安全を買うために、あるいは武力をあてにして、権力者が海賊にすり寄ってくることは多い。エースは七武海の地位も含めたそれらすべてを蹴飛ばして来た。しかし、自由と奔放を愛するといえども、「四皇」とまで呼ばれる白ひげ海賊団が「そう」するわけにはいかないのもよく理解っている。
「まあ聞けよ」
肩を組んでくるサッチ腕は以外に強くて振りほどけない。逃げようとするエースに、内緒話のようにサッチがリーゼントを近づけてくる。
「この主催者な、臣籍に降った王弟なんだが、・・・おまえが怒鳴りこんできたあの薬。あれの卸元」
「!」
「ありゃ、この国唯一の特産品でな。世界政府の手前認めちゃいねぇが、暗黙で王室公認というわけだ」
禁断の麻薬といえども、莫大な金の成る木だ。民間や犯罪者に渡してやるわけにはいかない。さりとて王室が直接に関われば世界中の非難は免れない。王弟が王の与り知らぬところで商っているから、いざという時切り捨てることができる。得々と説明するサッチをエースは睨む。
「その捨て駒とあんたらは商売をしてるわけか」
「白ひげ海賊団」が、権力と関わらざるを得ないことを。理解してはいるが、納得はできない。権力者などという輩が信用ならないことも、幼い時の経験で嫌というほどわかっているからだ。奴らは海賊のことなど、否、自分たち以外のことなど、「人間」とすら思っていない。
「そう言うなよ。うちの独占契約だぜ?おかげで値崩れもしねぇ」
「それがなんだってんだよ」
「需要のある商品の供給を一手に担う、それが『力』ってもんだろ・・・ってのはまあ、あいつの真似だけどよ」
サッチの視線の先で。王弟殿下とやらが御満悦顔で白ひげに話しかけている。仰々しい長広舌に対応しているのは、白ひげ自身ではなく、隣の男だ。
白ひげの傍らに立つ一番隊隊長は、整えた衣服が嫌味なくらいによく似合った。粗暴な海賊には見えないが、堅気にも見えない。商人にも軍人にも見えない。もっと性質の悪いものに見える。
如才ない会話、あしらう笑み。その気になれば、一国の貴族でも、誑かしてしまえそうな才覚。駄々をこねるガキひとり、まるめこむことなどさぞかし朝飯前だったのだろう。金だの権勢だの、そんなものが欲しいなら。
「・・・海賊なんざやめちまえ」
吐き捨てた言葉に、サッチが眉をひそめる。無理もない。下手をすれば最大級の侮蔑だ。船の上なら決闘が起こりかねない。
「・・・まあ、そんなとんがるなよ。こっちにだって事情ってもんがあるんだ」
「興味ねぇ」
エースの拒絶を無視してサッチは続ける。一番隊隊長への侮辱など聞かなかったように厚い面の皮でへらりと笑う。
「ここが兵隊に囲まれてんのはおまえも気付いてるだろ?やってんのはいわゆる『反対派』って奴でな。おまえさんみたいに、クスリの嫌いな連中が、腐敗した王制って奴を打倒しようとしてるわけだ」
当て擦りに、今度はエースが眉をひそめる。
「そっちに加勢するか?」
反対派とやらが政権をとれば、当然美味い汁を吸っていた海賊など追い払おうとするだろう。そうすれば白ひげ海賊団がくだらない取引に関わることはなくなる。資金源がひとつ潰れようと知ったこっちゃない。これ以上ヤバいクスリが出回ることもない。危うい考えが兆す。ならばいっそ、本当に。
見透かしたようにサッチがさえぎる。
「冗談だよ。やめとけ」
「・・・おれはおれの好きなようにする」
「やめとけ」
一転つまらなそうに鼻をならす。「反対派なんつっても、要は貴族だ。権力を握れば必ずあれに手を染める。一度世に出たもんを止める術なんざねぇし、やつらはどっちも海賊なんざクソで人間だとも思っていねぇ」
それは、確かにそうなのかもしれない。権力は人を狂わす。国が禁じれば野がそれを行う。一度知った旨みを人は決して忘れることはない。否、そんなことはどうでもいい。そんなことは副次的なことだ。エースが納得できないのはただ一つだ。
「ここの連中なんざ知ったことか。おれは、自分の乗るの船が、あんなクソみてぇなモンを積んでるのが嫌なだけだ」
「そりゃおれもできれば関わらねぇほうがいいと思うけどよ」
「ならなんで・・・!」
「事情があるっつったろーが。だからうちは、どちらにとっても目ざわりなんだよ」
「・・・?」
だから、と、どちらにとっても、の意味がわからない。「どちらにとっても」とは、卸元にとっても反対派にとってもということか。卸元とは蜜月のはずではないのか。招かれた、贅を尽くした晩餐会は終わりに近づいている。少なくとも王室につながる者が海賊を賓客として遇した宴だ。取引は順調に行われているのではないのか。
「お、そろそろ中締めか。連中動かねぇなー・・・」
晩餐会は一旦の区切りを迎えるらしい。給仕の人間が動き始め、各人に新たなグラスを配っていく。大きな杯で飲んでいた白ひげにも華奢なグラスが恭しく手渡される。
王弟が派手な身ぶり手ぶりで、自国と白ひげ海賊団の互いの繁栄とやらを高らかに喚く。とにもかくにも、この長広舌が終われば乾杯して終わりだ。ようやくこの茶番から解放されるとエースは無理矢理安堵しようとする。
「事情」など知らない。頭のよろしいらしい誰かの言訳なんざ聞きたくない。手渡された細いシャンパングラスには淡い金色の液体がかすかな泡をたてている。最高級の酒がここにあって、一国を動かす立場の人間がここにいて、得々としゃべる舌は見苦しくて、海賊に見えないマルコが刷く笑みが苛立たしくて、この瞬間に何もかもぶち壊しにしたらどれほど楽しいだろうかと、思った。
乾杯と宣言される、わずかな隙間に、その声は滑り込む。
「オヤジ」
左に控えた一番隊隊長が、―――マルコが、ふと白ひげを呼ぶ。低い眠そうな声が、その時ばかりはエースにも届いた。鷹揚に振り向いた白ひげの手からマルコはグラスを取り上げる。そのまま一瞬の遅滞もなくグラスの淵に口づけて、呷った。
瞬きするほどの間のできごとだった。
その意味を問われる前に、落ちたグラスが床で砕けた。
ぐっと呻いて、長い身が二つに折れる。
えづくように喉が伸びる、その唇が喘いで、がふりと大量の血を溢れさせた。
「マルコ!!」
複数の怒声のひとつが、自分のものだと、エースは意識しなかった。
かさなるように悲鳴が響く。
椅子が蹴倒され、食器が割れる喧噪の中で、血を吐いた男がごとりと膝をつく。
のたうつ身体がさらに大量の血をあふれさせて床にびしゃりと音をたてる。
まぎれもない断末魔の痙攣だった。
「マルコ!!」
炎の力を借りて一足飛びに辿り着き、エースは苦悶する肩を引き起こす。血で汚れ紫色に変じた貌に息をのむ。足元にはなおもひろがる赤褐色の染み。光の失せた、薄青いガラス玉のような眸がエースを見る。そこには何も映していない、ように見えた。
一際高い悲鳴が響き、広間の四方の入り口から武装した集団がなだれ込んでくるのを見る。気配だけで振り向けば、至近距離で銃を構えた王弟の歪んだ形相。
銃口の先には白ひげ―――。
腕の中で、男は嗤った。
とっさに飛ばした炎で王弟の銃を弾く。注意をもどした時には、男は、人ではなくなっていた。
哄笑が響きわたる。その場にいる全てを圧倒する嘲笑。
先刻まで血を吐いてのたうち回っていた顔が、げらげらと喉を鳴らして嗤っていた。
蒼い炎が男を包んでいる。嗤う声に弾かれるように瞬く間に幻が飛び火する。
広間中が共振する。物理的な力をもって大気を揺るがす。
ヒトと炎と鳥と渾然と入り混じった異形が、狂ったように哄笑する。
蒼い焔。再生と不死を司る鳥。
『白ひげ』に盛られた毒を飲み込んだ鳥が、喜悦すら滲ませて宣言する。
「これがてめえらの返答かよい!!」
それが合図だった。
「エース!!退路を拓け!!」
「!」
サッチの指示に応とこたえて、エースはすぐさま己が腕先を炎に変じる。周囲には既に分散してた味方が集まり、白ひげを守っている。迷うことのない出力で、出口までを一直線に舐めあげる。恐怖に逃げ惑う人間を蹴散らし、一斉正射しようとしていた一群に突っ込み、当たると幸い薙ぎ払う。
「ジョズ!オヤジを!」
「おう!」
「ラクヨウ!」
「わかってる!任せろ!」
矢継ぎ早に指示を飛ばすサッチに隊長連が応えるのを耳の端に聞く。歯向かってくる兵を無造作になぎ倒しながら違和感を覚える。サッチがまともな仕事をしていることにではなく。
振り向く。三番隊隊長のジョズが貴石の硬度で銃弾を防いでいる。小山のような白ひげは乱戦のさなかに小揺るぎもしない。痛ましそうに見おろす視線の先の青。
(指揮系統が戻っていない)
白ひげが小競り合いに指揮をとることはない。一番隊隊長が再生したなら、サッチはすぐに指揮権を返す。いい加減だから。面倒くさがりだから。進んでそんな任を背負ったりしない。マルコが、復活しているなら。
「マルコ?!」
人と硝煙となぎ倒された障害物の間から垣間見る。地面に近いところに青の輝き。七番隊隊長のラクヨウが助け起こすように傍らに屈んでいる。
否。鉄鎖術を得意とするラクヨウはその全力をもって地にもがく鳥を封じている。がんじがらめに縛られた青い炎が叫ぶ。喧噪にまぎれた苦悶の叫び。
「マルコ!!」
「ジル!!一足先に行け!わかるな?!」
「応!」
「殺られんじゃねぇぞ!」
「ったりめぇだ!!」
前線を離れるわけにはいかないエースの傍らを、鳥を担いだ影が擦り抜ける。
十四番隊隊長は"スピード"の二つ名のとおり、速度においては白ひげ海賊団の中でも一二を争う。"月歩"と呼ばれる中空を踏む歩法で、飛ぶように戦場を離脱していく。
エースは判断に迷った。不測の事態が起こっているのはわかる。不死鳥の能力をもつはずのマルコが復活していない。サッチからジルへの忠告。数と装備は充実した敵兵。逃げ惑う一般人。この場に残って制圧すべきか。追うべきか。
「エース!ここはもういいっ!てめぇも後を追え!!」
背後の空気が撓んでいく。見なくてもわかる。白ひげが力をためている。怒りとともに。ここはもう終わりだ。
「イゾウの指示に従え!・・・マルコを頼む!!」
弾かれたように跳ぶ。体半分を炎に変じ、燃焼する勢いを利用して頭上を越える。
向けられる銃口の先に着地し、蹴り飛ばして跳躍する。建物から建物へ渡りながら、既に姿の見えない鳥を追った。
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