「約束」。
それは真っ当な言葉だ。真っ当すぎてこの海では重い言葉だ。海賊が。この海でものごとを通すには力が必要だ。それが馬鹿みたいな願いならなおさら馬鹿みたいな力が必要だ。だからオヤジは馬鹿なやつが好きだ。
かつて。嗤った連中をのこらず叩き潰してきたから、ここは、今、「家族」と名乗ることができる。
海のクズどもが徒党を組んで家族ごっこをしている。そう嘲笑うやつらと殺し合って、容赦なく叩き潰してきたから今の「白ひげ海賊団」はある。愚かだと、偽善だと罵る世間の理屈を力づくで捻じ曲げて、オヤジはそれを貫いている。この海で「家族」ということを押しとおすために、それだけの犠牲が支払われている。
「約束」。その言葉も同じだ。通すためには力がいる。それを、あれは、わかっているのだろうか。わかっていないはずはないと思う。なのにわかっていないのではないのかとも思う。エースは。エースという少年は。わからない、よくわからない存在だ。無謀で直情的だと思っていたのに思慮深い面を見せる。世間をよく弁えているようにみえるのに、無造作に怖い言葉をふりかざす。
「仲間」をかばって「白ひげ」とひとり立ち向かう。
その奇跡のような偉業を成し遂げた少年だ。約束ひとつ。当たり前のように強請って見せる。それひとつを通すために。それひとつを守るために白ひげが払ってきた犠牲を彼は知らない。
そのことを少年が知るべきだと、考えている自らの心もちを、マルコは気付いている。度しがたいことだ。度しがたい。己自身が。
「―――マルコ」
白昼の船上で。耳に慣れた声で物思いを破られてマルコは息を詰める。
航海に相応しい素晴らしい天気の日だった。辛気臭い顔をしているのは自分だけだろうと思わせるに十分なほどには。甲板に気に入りの椅子を出して海風を受ける父親は、ここ最近の体調の良さをうかがわせてマルコを安堵させる。来い来いと大きな手でさし招かれて歩く進路を変える。浮き立つ内心を自制して、猫の子を呼ぶような仕草に普段通りの仏頂面で応じる。
「オヤジ、なんだよい」
「マルコ、頼んだことは進んでるか」
予想するより先に直球を投げ込まれて不景気な顔をさらにしかめる。白ひげのオーダーのうち、明確に積み残しているのはたったひとつだ。腹立たしいことに。
「……難航してるよい」
「グララララ。情けねぇことを言うな。不死鳥の二つ名が泣くぞ」
「…猫と鳥は相性が悪いと相場が決まってるよい」
白ひげは笑うまま何も言わず、ただ自分の傍らを指差して見せる。その差し示す先を覗きこむ。
エースが。白ひげの座る大きな深い椅子の肘掛の陰で、大の字になって眠っていた。正面からは見えないところ。陰になって風が通って涼しいところ。伸びやかに両手両足をのばしているくせに、伸びた先が椅子の下だったり機器の隙間だったりする、絶妙にナース達の邪魔にはならないところ。顔の上に載せられたテンガロンで表情は見えない。口の端だけがあどけなく眠りに綻んでいる。
肋骨の内側がざわめく。泡立って消えていく。解釈する前に消えていく情動を捕まえる術はない。
半歩遅れて先刻の発言を聞かれなかったかという危惧が湧いて、名前も出していないことを記憶の中で慌てて確認した。そうしてエースが完全に眠っていることに気付いて、知らず焦った自身に愕然とする。その狼狽を白ひげはにやにやと笑って見ている。
「…ひとが悪ィよい」
海賊旗のままの悪童じみた笑みを白ひげは浮かべる。引きずられて嘆息する。話題の真ん中でエースに起きる気配はない。無理はない。マルコの存在は白ひげの大きさの前にかき消される。彼の人の前では誰でもそうだ。だから、白ひげの存在感だけを感覚していれば他人の気配に煩わされることがない。そしてその傍らなら絶対に安全だという安心がある。だから、深く眠るのにここほど都合のよいところはない。それはマルコも身をもって知っていた。
裸の腹を見せるさまは、猫というよりはむしろ、主の前で油断した犬のようだと思った。どうみても間抜けなかっこうなのに、細身の体は鍛えられて力の気配をそこかしこに秘める。獰猛で強靭な人に懐かない犬。弱点の腹をさらすのは服従と信頼の証。
まるでそれを裏付けるように、わずかな身じろぎとともに狭い空間で器用に寝返りを打つ。丸まった背と深い寝息を聞きながら思わずもう一度ため息を吐く。眠っていてもマルコに腹をさらす気は毛頭ないらしい。
「鯛焼きをわけてやったら、食いながら寝ちまった」
「……。まったくどこでも良く食って良く寝るガキだよい」
「そうか。てっきりここしか行き場がねぇのかと思っていた」
「………」
もろ手を挙げて降参する。返す言葉もなかった。白ひげは、いつでも不思議と何でもわかっている。当然だ。ここは白鯨の腹の中だ。船長たる彼に隠しごとなどできるはずもない。
「かまってやると約束したなら、きちんとかまってやれ」
「………すまねぇよい」
エースはあれから本当にマルコの仕事を手伝っている。毎日ではない。出港や入港の前後、戦闘の準備や後始末などの殺人的に忙しい時期に捕まえては傍らに置く。マルコは助かっているが、エースにとってはたまったものではないだろう。あれから結局組み手ひとつやってやれてない。しかも本当に困ったことにこの人材はなかなかに重宝するのだ。
案の定というべきか、損耗だの補給だのよりは、敵の戦力分析や戦域の海図を前に戦術を練っている方が愉しいらしい。
決して覚えがいいわけではないが、勘がいい。読めと渡した実務書は難儀しているようだが、同じ問題を実際の案件で渡せばほぼ使える結果を出してくる。
勘がいい。一を言えば十が分かるわけではないが、要点を嗅ぎわける嗅覚をもっている。それはひとつの才能で、訓練で得られるものでもない。要点を嗅ぎわけるということはつまり、切り捨てる能力だ。複数の正義とからみあった意図といくつもの欲と捩じれた感情の混在した場所にあって、それらの思惑に捕らわれることなく、常に急所を押さえられる能力だ。理論に裏打ちされない、「勘」としかいいようのないそれは、一面から見れば愚かで頑固で無謀な選択にも見えることがある。それでも、選択の正否は結果でしか測れない。それほど愚かしく見えようと、この海を生き残っている、その事実がその能力を証明している。
これだけ命知らずで、それでも生き残っているこの少年は、ただ運良く強力な実を食べただけのルーキーではない。
「オヤジ、…エースを、どうする気だよい」
それは、多分最初からあった疑問だ。磊落で時に無造作に見える白ひげの決断が、それだけでないことをマルコは知っている。白ひげが気に入ったのは本当だ。このまま無謀に進めばいつか無惨に死ぬしかない少年を、そうするには惜しいと考えたことも嘘ではないはずだ。
珍しい悪魔の実の能力、それだけの少年だったらよかった。知らぬが故の傲慢、それだけの少年だったらよかった。だがそれだけではない。それだけであるはずがない。
マルコの詰問に白ひげは答えない。ただ悠然と自慢のひげをしごき海を眺めている。
今、エースをとりまく周囲がどういう噂をたてているのかをマルコもわかっている。
異例の早さでの小隊長への抜擢、そして一番隊隊長の直接の補佐。そもそもマルコには副隊長がいる。それは主に、航海士長としてのマルコの補佐だ。もちろん腕も立つ男だが、一隊を指揮するよりは、風や海を読むことに長けている。性格ものんびりとしていて、上に立つよりは副が向いている。戦闘では全体に目が行きがちなマルコの代わりに一番隊を仕切るが、少し荷が重い。それでも海賊船ではバランスの良い人材は貴重だ。だからマルコは副隊長を手放す気はないし、彼では二番隊隊長が務まらないこともわかっている。
エースは、戦闘面では申し分ない。強いものが偉いというのなら、まさにエースの強さは図抜けている。「純粋な殺し合い」になったとき、彼に勝てる者がこの海賊団にすらどれほどいるだろうか。
マルコはてっきり、白ひげがエースを二番隊隊長にしたいのだと、そう思っていた。
だから、飯を与えて、居場所を与えて、強さを教えて、仕事を与えた。「家族」という約束の中に迎えた。エースを「家族」でないという者はもう白ひげ海賊団にはいない。二番隊隊長になるためだけなら、もしかしたら、それで十分なのかもしれない。
しかしそれだけなら、ここまで引っかかることはない。戦闘能力の高い、人をまとめる力のある人間を、それが十代の少年だとしても、いずれ隊長格になることは間違いない人間を、白ひげ海賊団の一員として迎え入れるだけなら。
それだけなら。甘やかす必要などない。
白ひげは、エースを甘やかしてやれと言った。
優秀で大人びて仲間想いのエースの、中心に黒々と口を空ける孤独と餓えは、少し勘のいい者なら誰だって気付いている。理由も背景もわからない。しかし歴戦の海賊が覗き込むのを躊躇うほどには深い虚ろ。
エースがただのガキで、信頼と親愛と口うるさいほどのお節介でその穴を埋められるような相手なら苦労しなかった。この船にはかまいたがりが揃っていて、大概の凄惨な経験を積んだ者が揃っていて、若者の悩みを聞くにはことかかない。
だけどエースはガキで、それ以上に海賊だった。
海賊なら、己の望みは己で通す。叶わぬなら力づくで。力づくで得られぬならその命をもって。それがどんなに子どもじみた願いでも。エースが己が餓えを己が望みで満たそうとするのなら、それを軽々に青いと笑い飛ばしてやることはできない。青いと笑い、その「代わり」を差し出せたのは白ひげだけで、エースが受け容れたのも白ひげひとりだけだ。
白ひげを認めることでエースの何がしかは埋まったのだろう。それでもいまだ足らないのだ。まだ足らない。白ひげの存在があっても埋まらない欠落。どうしてマルコに差し出せるものがあるだろうか。
甘やかしてやろうなど、おこがましい考えだ。
そう思いつけば腑に落ちた。
マルコは期待しているのだ。
エースは、この少年は、運命の輪だ。
すとんと直観する。これは「鍵」だ。二番隊隊長などでは足らない。それではまったく足らない。足らない。エースには足らない。マルコは期待している。マルコはエースがマルコの期待をマルコの期待以上に充たすことを期待している。
それは危険な兆候だ。誰かを期待するなどということが。己以上に期待をかけるということが。
「マルコ、てめぇは考えすぎんのが悪ィ癖だ」
見透かされた。動揺を隠せば声が掠れた。
「…隠すアンタが悪ィよい。…こいつは、何者だ」
「……鳳雛だ。多分な」
潮に荒れた板敷きの床に丸まる背は骨を浮かせて稚い。知識も経験も少ない。それでも、その器を見誤ることだけはできない。白ひげが言うならなおさら。これはいずれもっと大きくなる。この海で名を上げ、世間を揺るがし、あるいは歴史の中に自らを刻むのだろう。それでも。突然わき上がる焦りがじりじりと思考を焼く。それでも足りない。これは運命を廻す輪だ。白ひげ海賊団の、運命を廻す輪だ。
「マルコ、おれたちがやってんのは『家族ごっこ』だな」
「…っ!」
歯噛みする。つくづく心臓に悪い船長だ。白昼の穏やかな船上でする話じゃない。誰が聞いているともしれない場所でする話じゃない。しかし否定することもできない。誰かがいたら、絶対に笑い飛ばしただろう。いくらオヤジでも言っていいことと悪いことがあるときつくたしなめただろう。
しかし、わかっていた。わかっていた。そんなことはとっくに承知している。海賊は海賊だ。寄せ集めの無頼が白ひげの懐に魅かれて集ったからといって簡単になれるものではない。だから『家族ごっこ』だとわかっているから、『家族』と認めさせるために力でおし通す。ただの海賊、ただの豺狼の群れとわかっているから、『家族』であるために多大な犠牲を払う。それでも、もし今、白ひげが隠れれば白ひげ海賊団は空中分解する。「白ひげの息子」だから家族でいられるのだ。親をなくした家族ごっこは成り立たない。
マルコには群れを率いる自信がある。千人を超える『家族』を餓えず足を止めさせず率いることはできる。だが彼らを導くことはできない。白ひげがするように、迷いなく道を指し示すことはできない。彼の副が、二番隊隊長になれないのと同じように。
「だがな、こいつがいれば、……」
エースはマルコの想定の少しだけ斜め上を行く。思った以上に頑固で、思った以上に切先が鋭い。思った以上に上っ面が良くて、思った以上に底が見えなくて。もっと、と期待してしまう。もっと、の先はマルコが敢えて言葉にしてこなかったことだ。
この海賊団の未来。覗き込むことさえできない深い闇。いつか必ず失われるとわかっているものから目をそらしていること。
それでも、それを変えることができるのではないかと。マルコの想像を想定を予測を超える先。
しかし、それは危険だ。危険だとわかる。
白ひげが大きな犠牲を払って得てきた『家族』という果実を、この少年は己が身ひとつで贖おうとしている。その身ひとつにどれほどの価値があるのか、マルコは知らない。エースが切り札を隠し持っていることを、本能で感じ取っているだけだ。エースは切り札を持っている。それは確信だ。エースは、ただ、偶然強力な悪魔の実を食べただけのルーキーではあり得ない。エースは、その身一つで、この海賊団に匹敵する切り札を隠し持っている。
虚勢でなく。たとえではなく。
この海賊団を滅ぼす力を。
「飛び方を教えてやれ」
両刃の剣だ。
白ひげは、最後にその懐に刃を呑んだ。誰を切り裂くとも知れぬ刃を。破滅と栄光を共に引き寄せる刃を。その確信がある。
「甘やかしてやってくれ、マルコ」
からかうような白ひげの言葉は、すでに韜晦を取り戻している。海の波に似た声で笑う。
白ひげは、自身の亡き後を語らない。決して語らない。海賊が先を憂うことほど滑稽なことはないと。季節が巡るごとに、病がその重さを増しても、白ひげは後を語らない。白ひげ海賊団の後を語らない。
例えエースを後継と目していたとしても、白ひげがそれを口にすることはない。決して。
「甘やかし方なんざしらねぇよい」
「てめぇはいつもおれには甘いとナースたちがぼやいていたぞ?」
「………………」
「孝行息子をもっておれは幸せモンだ」
「…クソオヤジの息子でおれもシアワセだよい」
視線の先で床に転がる少年は、今ばかりはどこにでもいるガキそのものだ。
交わされる会話に気付きもせず健やかに眠りを貪る。ここでだけは悪夢も見ずに。
スープなど。呉れてやらなければ良かった。己が世界を脅かされるとわかっていたなら。食い物など与えず、船の外へ放り出してしまえば良かった。甲板の。隅っこに膝を抱える少年の。苦しい程に切実な。焼かれる程に凶悪な。渇死寸前の眼差しを覗き込む前に。その輝きに魅かれる前に。
約束をかなえるには力がいる。それがささいなものでもだいそれたものでも、それに応じた力が必ず。
必ず。
マルコは約束して、それを果たさなければならない。
かくしてマルコはひとつ思い出す。理解できないものとして記憶の片隅に押しやっていた会話。理解できず、再び問うこともできず、忘れることもできない。
かつて海賊王と呼ばれた男はその栄華の絶頂において、何もかもを手放した。彼の仲間、彼の船、彼の栄誉、彼の宝、彼の自由、彼の命。すべて彼の我ままひとつで。
最悪だと思う。その船の一員でなくて良かったと心から思う。白ひげが、今マルコに何も言わず船を降りろと命じたら、きっと死にたくなる。処刑されるのを何もせずに見ていろと言われたなら、きっと、ならば目の前で自ら死んでやると言っただろう。言えるはずがないとしても。
赤髪は。彼は無力だったのだと笑った。海賊王をあの場所から攫うにはあまりに無力だったと。それは嘘ではないだろう。十代の若造でしかなかった彼らには世界の壁は厚すぎた。それでも、ならば今と、四皇と呼ばれる力を得た今、目の前で同じ状況になったのならばどうするのかと。
純粋な力をもち。政治的な権勢をもち。抗うためのあらゆる全ての機会と手立てをもちながら、それでも己が王が自ら全てを捨てると言ったなら。
酒の席の戯言だった。互いの酩酊を言い訳にして、素面なら戦争になりかねない問いを投げた。
否。赤髪が、ではない。
何故、かつて『冥王』は座してそれを許したのかと。
何故。
赤髪は笑った。当たり前のように笑って当たり前のように言った。
当たり前のようにそれを許した。
「そりゃあ。レイリーさんは、船長にすっげぇ甘かったから」
つづく
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