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Full Monty(トライガン)

 
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「――――――潔くないねぇ」
 
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女は極上の笑みをその紅い唇に刷いた。紫紺のドレスから覗く脚を無造作に組み換える。拍子に、かたむけられた古い椅子がぎしりときしんだ。広い室内は水を打ったように静まりかえっている。少なくはない人の数。その誰もが、あからさまな好奇心とともに、手を止め息を詰め事の趨勢を見守っている。それでなくとも女の甘く錆びた声は良く通った。
 
「賭けは賭け、負けは負けだろう?」
 
深い色に彩られた爪先がテーブルに山と積まれたコインの一枚を弾く。周囲から何対もの視線がそれを追う。鈍色のコインは散らばったカードの上を過ぎ、汚れた灰皿の脇を抜け、突っ伏す男の頭にぶつかって、止まった。ぱさぱさの黒髪がもそりと蠢き、両脇に置かれた拳がじわりと震えるのを女は面白そうに眺めた。あたかも獲物を捕らえた猫のごとくに切れ長の眼を眇める。
 
「それとも」
 
灰皿の縁から男の煙草を取り上げる。半ば消えた火をつけ直し、ゆっくりと吸い込む。返す吐息で囁いた。
 
「女に負けてケツまくるかい?」
 
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「――――――っ!ぅがぁっっ!!」
 
ガンッ、とテーブルを叩いて男は天を仰いだ。あおりをくって空のグラスが倒れる。
 
「わぁかった!!――わかったわ!ワイの負けや!もうアカン。かなわへん。お手上げや。もー参りましたっ」
 
機関銃のごとく捲くしたて、男は―――百戦錬磨の巡回牧師、黒衣の暗殺者、泣く人間台風も黙るニコラス・D・ウルフウッドは――――いささかすてばちに咆えた。
 
「好きにせぇ!!!」
 
大音声とともに最後まで握られていたカードが宙を舞う。やけくそに高らかな敗北宣言は、狭くはないホールに響きわたり、一斉に湧き上がった歓声と口笛にすぐさまかき消された。
 
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ことの起こりはやっぱり人間台風に始まったりする。
 
とは言っても、賞金稼ぎに狙われたわけでも、チンピラに絡まれた女の子を救ったわけでも、関係のない喧嘩をわざわざ仲裁に行ったわけでもない。……ごくごく単純に路銀が尽きたのだ。
一応正規の教会に属し「巡回牧師」という身分を持っているウルフウッドは、それなりに定期的に収入がある。―――表・裏共に、だ。それに対し元々風来坊のヴァッシュの収入は完全に不定期な、なくなったら稼ぐ、といった類のものである。行く街々で、簡単な労働、それこそ皿洗いから墓掘りまでして幾ばくかの金を得る。たまには調子の悪いプラントを整備してまとまった礼を受け、もう少し頻繁には返り討ちにした小悪党の賞金を少し複雑そうな顔で受け取る。そんな調子だからヴァッシュにとってこの事態は特に焦るような状況でもない。ウルフウッドにとっては、物資の調達以上に長く街に留まるのは正直避けたい相談だったが、連れの分まで金を払う気など毛頭ないからには認めざるを得なかった。そうして、着いた街で宿を取るよりも先に仕事を探し、食事・寝場所込みでヴァッシュが見つけてきたのが、娼館の用心棒といういささか胡乱な話だったのだ。
ヴァッシュ曰く、数日前にその娼館で一人の歌姫を巡って客同士での面倒な刃傷沙汰があったのだという。騒ぎそのものは、この街の裏を仕切る顔役と、客の父親――どちらも結構な身分らしい――の話し合いで何とか治まりそうなのだが、騒ぎを起した当人が再び無理矢理にでも捻じ込んで来る可能性があるのだという。「偉い人たちのお話し合いが終わるまで店は休業…。ボスは大丈夫って言うけど女ばかりで不安なの」紹介されて行った館で、まとめ役らしい艶やかな美女はそうヴァッシュに懇願したという。「一晩だけで良いから」と。
 
「……それ、ホンマか?」
 
本当に危険な状況なら流れ者など雇うのかと問うウルフウッドに、あっさりとヴァッシュは首を振って見せた。
「いや。後から街で聞いてみたけど、張本人は軟禁状態らしいから。……多分暇なんだろうね」
「…ワイらていのいい遊び道具ちゃうんか?」
「あ、手は出さないからって言ってた」
「…………それは嬉しいんか嬉しないんか微妙やな」
「受けるの受けないの?」
迷う素振りも見せないヴァッシュに、ウルフウッドが内心こいつも男やったんやなあと呟いたかどうかは分からない。とにかく破格の条件は確かだった上、歩くトラブルメイカーを放っておくわけにも行かずウルフウッドも同行した。それが運の尽きだった。
 
「で、姐サンのご要望は何や。金払え以外やったら何でもしたるで」
 
粗末な椅子にいっそ傲然と身を預け、ウルフウッドは正面の女に獰猛に笑んで見せる。女は――イライザと名乗った――ウフフとそれを流すと、散らばったカードを丁寧に集め始める。そこに獲物を嬲る猫のような色をみつけ、ウルフウッドは逃げ出したい衝動を内心抑えこむ。何にしろ状況は最悪だった。ヴァッシュは見回りと称していない。三十分で戻ると行ってからまだ十分経った程度だ。先刻から代わる代わる肩越しに彼のカードを覗き込んで、女達が慰めるようにからかうように彼の背や髪を掠める。くすくすと笑うさざめき、衣擦れ、残り香。男なら喜んでしかるべき状況だ。それがほんの数人ですむなら。
勝負の決着とともに二人の周りは店中の女達によって囲まれていた。そう、『女達』、である。妙齢の女性はもちろん、下は小間使いの十代の少女から上は五十代の賄いのおばちゃんまで、場所柄色気たっぷりに着飾った女性達がざっと数十人。それぞれに値踏みやら興味やら艶やら熱やらの視線を紅一点ならぬ黒一点のウルフウッドに注いでいるのだ。…もの凄い圧迫感である。いくら胆力のある男といえどもこれだけの数の女達に囲まれたら正直手も足も出ない。たいして長くもない人生で、たいていの修羅場はくぐって来たように思っていたがとんだ思い上がりだったと頭の隅で思う。
 
(この世で一番コワイんは女や)
 
しみじみと感慨にふけるウルフウッドは、だがまだ「女」の恐ろしさを侮っていたのだとすぐに気付くことになる。ようやく全てのカードを集め終わったイライザが、器用にそれをシャッフルしながら再びウフフと笑った。美貌だ。それは確かだ。それに油断したわけではなかった。賭けをもちかけられたとき乗ったのは、報酬二倍の魅力と己の勝負運の強さを恃んで、だ。手強い相手だというのはそのときすでに分かっていた。分かっていなかったのは、『手強い』でなく『破格に強い』ということだと気付いたときには、既に遅かった。かくして完敗を喫したウルフウッドに提示されていた条件は、
 
『一つだけ何でもいうことをきく』
 
だったのである。
 
「懺悔やったらいくらでも聞いたるけどな」
嘯きながらも内心冷や汗を浮かべている。イライザは悠然とカードを弄びながら、「そういや、牧師様だったね」と呟いた。不意にその瞳をくるりときらめかせると、一転少女のような仕草で身を乗り出す。思わず半端に身を引いたウルフウッドのシャツをむんずと掴むと、左の耳朶に唇を寄せる。低く、だが響く声で告げた。
 
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「Full脱 Montyげ」
 
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一瞬の空白。
 
一番最初に反応したのは最も近くにいた十七、八の少女だった。きゃああ!と黄色い声をあげて飛び上がらんばかりに身をもむ。胸の前で祈るように組まれた手ときらめく眼に、ウルフウッドが思いっきり怯む。それを皮切りに、興奮は飛び火のように広まり、黄色い声は熱をもって伝染してゆく。どこからともなく始まった手拍子に、絶句したままウルフウッドは頭を抱えた。
 
「ちょ…ちょお待て姐サン」
かろうじて絞り出した制止も喧噪に呑みこまれる。にまにまと今度はチェシャ猫のように笑うイライザが、ポンポンとその頭を撫でる。
「まあ、諦めな」
「…ッ!ワイ聖職者やで?!」
途端にきゃーっと一段高くなる歓声に「何でソコで盛り上がんねん?!」とツッコミをいれつつ、ウルフウッドは必死にこの苦境を脱出する方法を探して焦る。周囲のテンションは絶好調に高く、下手な言い逃れは効きそうにない。いっそ襲撃が起こってくれればどんなにマシかと思ってしまったのも無理はないだろう。あまりの孤立無援さに思わずヴァッシュを探してしまって、よけいに絶望に拍車がかかる。この場にヴァッシュがいたとしても焼け石に水か、一歩間違えば火に油だ。
 
かつてこれほど絶体絶命の場に立たされたことがあろうか。
 
苦悩するウルフウッドに向かって、いけしゃあしゃあとイライザは追い討ちをかける。
「往生際悪いねぇ」
力なくテーブルに懐いていた頭を引き上げ、ウルフウッドはそれでももごもごと反論を試みる。
「……ヤローの裸見て楽しいん?」
「楽しいに決まってるだろ?」
「姐サンら欲求不満なんか?」
「アンタがここに居る女全員満足させてくれるンならそれでもいいよ?」
「…すんまへん。勘弁してください」
どうにもこうにも劣勢だ。ぱたぱたと勝手に舞台を作り始める女達を眺めやりながら、どれもこれもあのクソガキのせいやと考えてみても空しいことこの上ない。ああもうこれは腹括るしかないかといささか投げやりに考える。どのみち、裸踊りで擦り減るプライドなど、いまさら。
「アンタ…」
ふとイライザが真顔で呟いた。ウルフウッドの顔の脇、テーブルに腰をおろしてゆっくりと膝を組む。かがめた背から柔らかいブロンドが頬に流れた。
「…まだ少し、アタシらとおんなじ匂いがするね」
突然の指摘にウルフウッドは目を瞠く。
「ほんの少し、ね…。だから、いぢめたくなったのさ」
伸ばした指先でウルフウッドの顎を捕らえる。蠱惑的な仕草とは裏腹に、浮かぶ表情はむしろ穏やかだ。
「神様を想って…、あんなお日さまみたいな男に想われて…」
それは、羨望だったのだろう。足を抜くことができた――少なくとも彼女はそうとったのだ――ウルフウッドへの。彼は、何も言わなかった。それはあまりに大きな誤解であったが、いくつかの真実も含んでいた。春を鬻いで生きるか、人を殺して生きるかと問われたら、己は人を殺して生きる道を選ぶだろう、と。そして。
 
(お日さま みたいな男に 想われて)
 
それがどれほど彼の身の内を灼き尽くすとしても。
 
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「ほら、ぼさっとしてると今度はアンタのオトモダチに遊んでもらうよ」
 
再び婉然とけしかける女にウルフウッドはがたりと椅子を鳴らして立ち上がる。
「やる」
低く短く宣言する。ヴァッシュがイライザと勝負しようものなら、今度こそストリップどころじゃ済まされない。がーっもーっと唸りつつ、開き直って用意された花道を舞台へと大股に歩く。
「しゃーないっ!!やったるわ!!やったるけどなっ牧師にこないな事させるからにはオドレら全員地獄行きやからな!!覚悟しときぃや!!」
大声で言い渡せばどっとばかりに野次や嬌声が降ってくる。それに鷹揚に手をあげながら、はたと嫌なことに気付いたように振り返る。
「一つだけ条件や!トンガリは絶対入れんな!!絶対や!!」
イライザがにっと笑って顎をしゃくる。すばやく数人の女の子がジャンケンし、負けた者がしぶしぶと出口に向かった。
「何があっても引き留めとくんだよ!」イライザの指示に応えて、不敵に返す。
「襲ってもいいんですか?」
幾度目とも知れぬ笑いの渦に、イライザの声も切れ切れだ。
「襲うのは良し!!襲われたら蹴飛ばせ!!」
了解の合図としてピースを返した少女を見届けて、イライザは高く指を鳴らした。心得た女の一人が客席側の明かりを落とし、LPのスイッチを入れる。耳を聾するほどに流れ出したその音楽は―――。
 
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『YOU CAN LEAVE YOUR HAT ON』
 
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「…オドレらエエ趣味しとるわ…」
 
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呆れたように呟いて。一つだけ吹っ切るように笑うと、ウルフウッドは舞台へ飛び乗った。
 
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熱気。
 
興奮と期待。望むことへの羞恥と背徳の歓喜。
 
たわむれの、狂躁の、一夜限りの 『戯(あそ)び』。
 
――― 神様を、欺く覚悟はOK?
 
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そこだけ白く切り取られた空間に、男の纏う色は鮮やかに浮き上がった。と、空気を裂いて重い物体が舞台へと飛来する。顔前で危なげなく受け止めて、ウルフウッドは口の端を上げる。
「景気付けだよ」
半分ほど中身の残るボトルを掲げて、イライザへの礼とする。キャップを飛ばし、そのまま無造作に仰のき口腔へと流し込む。ゴクリ、ゴクリと喉を鳴らし、一息つく。再び、仰のく。飲み込む。同じように、もう一度。
音楽は鳴り続けている。男は動かない。強い蒸留酒を嚥下するその喉首だけがずくり、ずくりと上下する。蠢く口元から溢れた透明な液体は、頬を汚し頤を伝い幾つもの流れをつくって汗にてかる首筋を滑り落ちる。
誰かが、大きく唾を飲み込む。まるでその音を聞きつけたように、ちらりと男は下へと目を向けた。視線が遭った女に。ふと、咥えたボトルを離し、唇を舐めとる。赤くなる頬に意地悪く口角を引き上げて。半ば飲み干したボトルを頭上に掲げた。
パシャリ、と弾ける水の音に均衡が崩れる。人波が揺れる。頭から酒を浴びてウルフウッドはハハッと短く笑った。グラス一杯もなかったのだろう、溢された酒は、髪を濡らし、鼻梁を流れ、開かれた襟元へ流れ込む。
雨に降られた猫のようにぶるりと頭をふるわせて。濡れて貼りついた黒髪をかきあげる。困ったように笑う。低い声で囁いた。
「…濡れてもうたわ」
 
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それが、理由。それが、合図。
 
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「Take it off!!」
 
誰が、最初に叫んだのか。それはすぐに唱和へと変わる。男がゆっくりとステップを踏み始める。意外に達者なそれに喝采が沸きあがる。
 
「踊り子サンには触たらアカンで~」
 
軽口を叩きながら、足元へ伸ばされる腕を器用に避け、ジャケットのボタンを外してゆく。その下の、酒で貼りついたシャツのボタンも半ばまで外して、手を止める。覗く、褐色の肌に視線が集中するのを愉しんで、からかうように背を向ける。失望の声を、肩越しに流し見て。するりとジャケットを落とす、その駆け引き。
「ホントに牧師サマなのーー?!」
方々から飛ぶ野次に「やかましわっ」と返して、箍の外れたようにウルフウッドも笑う。靴と靴下を放り投げて、受け止めた少女達に「後で返せや」と言うのを忘れない。酒と汗で濡れたシャツはひたりと地肌に貼りつきその輪郭をあからさまにする。長い指が、仄紅く透ける突起をかすめるように辿り、焦らすようにゆっくりと、一つだけ留めていたボタンも外す。あらわになる胸元に、揺れる銀色の光。粗末な皮紐の先の、十字架。
 
「信じた?」
 
嘲るように唇の端を歪めて、返す言葉で淫靡に誘う。
「どこまで脱ぐかはお布施次第ちうんはどうや?」
膝をついて、わざとらしく音を立ててバックルを解く。トップのボタンを見せつけるように外す。ベルトはそのまま、ジッパーに手をかけて。猥らに、挑発する。視線の先は、イライザ。他の女の請うような視線も受けて、イライザは苦笑した。さすがにここまでの事態は想像していなかったらしい。参ったなとでも言いたげに、それでも片手を挙げていくつかの数字を提示する。元の報酬の二倍の金額。ウルフウッドが破顔する。
商談成立とばかりにイライザへ芝居気たっぷりにウインクして、立ち上がりざまベルトを引き抜く。噛みつくように袖のボタンを外して。曲に合わせて焦らすように方肩から落としていく。
「今日のお客サンは気前が良おてエエなァ」
わざとらしくシナをつくって、冗談とは思えないそんな台詞を言ってみたりする。光に晒される肉体は精悍で、だが、それ以上に煽情的だ。左脇の無惨な傷痕すら淫らがましい。それが男の仕草のせいなのか、この場の熟した空気のせいなのか、誰も判断がつかない。
女達の歓声は男の衣服を容赦なく剥ぎ取ってゆく。その漆黒の眼を、蔑むように媚びるように閃かせて男は踊る。のけぞる。肘で引っ掛けたシャツだけ慰みに纏わりつかせて。つたう汗を舐め取る。自らの膚を這う指が、神の徴をまさぐり、灼かれたように離れる。嗤う。
 
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「これだけは、勘弁してな」
 
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―――― 殊勝に冒涜の言葉を吐き。涜神の姿態で祈りを捧げる。
 
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その矛盾こそが。魂を引き裂くほどの相克こそが。何よりもこの男を祭壇へ引きずり上げる。供物のように。犠牲のように。奪われ曝され食い尽くされる子羊のように。
神へ悪魔へ世界へ捧げられた生贄のように。
 
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曲はクライマックスへと墜ちてゆく。かき消す喚声は悲鳴に等しい。条件はFull Monty。残るのはただ一枚のいちじくの葉。男が、つと、背を向けた。その時。
 
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ブツリと、音楽が途切れた。
 
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一瞬その場の全てが止まる。
 
静寂で飽和した空間に、その声はストンと落ちてきた。
 
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「―――― 何やってんの」
 
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一番早く動いたのは、――さすがというべきか――壇上のウルフウッドだった。すばやく手近のテーブルからクロスを引ったくると、身体にまとう。その勢いで落ちた食器の割れる音に、いくつかの悲鳴があがる。一挙に緊張を解かれて騒然とする場に、もう一度ヴァッシュ・ザ・スタンピードの声がホールを圧するように響いた。
 
「何、やってんの、ウルフウッド」
 
こっそりと舞台の袖に引っ込みかけていたウルフウッドがびくりと立ち止まる。ヴァッシュの表情に怒りはない。笑みも、ない。それが何よりも恐ろしい。
 
「いや、その、あのな、賭けが、二倍で、女将が…」
 
しどろもどろでぴこぴこと弁解するウルフウッドを無言で見やると、ヴァッシュはそのまま女主人に振り向く。さしものイライザも顔面を蒼白にして引きつった笑いを浮かべている。
「いや、ちょっと、冗談でサ、あんまり、堂に入ってるから、つい…」
じりじりと後退していく彼女を責められる者はいないだろう。ヴァッシュの隣で、彼を引き留めるように仰せつかった娘がひたすら拝むように頭を下げている。彼女を責められる者も、また、いない。
 
「…今晩は、ホントに、平和な夜だね」
 
にっこりとヴァッシュは宣言した。その口元は完璧な笑みを湛えているが、眼は全く笑っていない。その場に居合わせた誰もが、悪魔を幻視したと後に語る。
「件の連中も来そうにないし。――俺、少し彼とナシつけたいんで、ちょっと席を外しても良いかな?」
指さされたウルフウッドが哀れなほど狼狽する。助けを求めてさまよう視線は全て逸らされる。今のヴァッシュに立ち向かえる蛮勇をもつ者はいない。
「何かあったら、すぐ行くからさ。知らせてくれるかな」
本当に申し訳なさそうに言って、極めつけに小首を傾げてみせるヴァッシュに、誰もが内心、例え襲撃があっても言えるものかと思ったりした。
「皆も早く休んだら?睡眠不足は美容に良くないんデショ?」
にこにこにこにこ。あくまでヴァッシュの表情は『微笑み』だ。硬直するウルフウッドに歩み寄るとよっと肩に担ぎ上げてひらひらと手を振る。
 
「じゃ」
 
さわやかに立ち去ってゆく人間台風と、声なく泣きながらお持ち帰りされる牧師を見送りつつ、イライザは額の汗をぬぐって、報酬は三倍にしてやろうとココロに決めた。それがどれほど彼の慰めになるかは知りようもなかったけれど。
 
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翌日。精も魂も尽き果てた牧師と白々しいほど笑みの眩しい人間台風はいささか厚すぎる封筒を受け取って娼館を後にした。残念ながら彼らが「話をつけた」部屋の上下左右に立ち入る勇気のある者はいなかったため、彼らの話がどのようなものであったかは謎のまま残された。そしてその謎は、中断された舞台と共に、女達に少なくとも三ヶ月は退屈しないネタを提供したのであった…。
 
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