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八 話
深夜の繁華街の片隅でひっそり行われた銃撃戦は、数発の発砲がなされたにも関わらず翌日の新聞やテレビをにぎわすことはなかった。
五日後に、とある週刊誌が「闇の銃撃戦」と題してすっぱ抜いた。そこには弾痕も生々しい破壊されたた店内と、多量の液体がこぼれた痕跡とみられる写真が掲載された。さらに、独自の調査により同店のバーテンダーとみられる男性が某病院で死亡していたことを報じた。記事はいくつかの暴力団の関与を推測し、事件に気がついてすらいなかった警察の無能さを嘲笑い、銃の蔓延する悪夢を嘆いて終わった。同日にはネット上に要約されたニュースが配信された。
面子を潰された警察が同店に踏み込んだときには、被害者も加害者も既に影すらなく、両隣の店長は―――事件当時そろいもそろって店休日だったという―――知らぬ存ぜぬを貫いた。事実彼らは、死んだバーテンダーの経歴はおろか名前ひとつ知らなかった。
事件が発覚してからしばらくの間、現場となったバーは警察の封鎖下に置かれた。荒れた店はさらに捜査という名目で荒らされ、暴力団の銃撃戦が起こった場所として、しばらくはマスコミや野次馬が張り付いていたが、やがて銃の痕跡以外何も収穫がないとわかると来たときと同様に速やかに引き上げていった。
主のいないまま捨て置かれた店は、日増しに荒んでいった。アンティークな炎を象った表の看板は割られ、酔っ払いの捨てるゴミが散乱した。重い樫の扉にシンプルに掲げられた店名を、控えめに照らしていたピンスポットも壊されていた。ただあの日から「OPEN」のままぶらさがった札だけが、彼を迎えてくれるようだった。
彼は、しばらくためらったのち、もう一度ぐるりと周囲を見渡して人の姿のないことを確認した。繁華街の中でも人気の少ない場所だった。日付を越えた深夜なら尚更。周囲の建物も含め隠れ潜める場所は知悉していた。事前にしらみつぶしに確認した。数日前まで張りついていた監視の目も今はなかった。
―――鍵は開いていた。
彼は腰に手を回したまま肩で扉を押した。夜闇に慣れた目で、わずかな隙間から奥をうかがう。人の気配はない。暗く沈んだ室内にひっくり返ったテーブルが見える。割れた瓶の破片が入り口まで飛散している。荒れた店内にするりと踏み出して、弾かれたように銃を構える。
扉の死角に、ぽつんと灯ったキャンドル。銃口の先でひらひらと招かれた手に、青年の動きが止まる。カウンターの中からもう一人、気配を感じさせなかった男が場違いに穏やかに囁いた。
「いらっしゃいませ」
咄嗟に踵を返そうとしたエースの足元にタウザーが絶妙のタイミングで擦り寄る。完全に機を逸して困り果てたエースにサッチが笑ってこいこいともう一度招く。
「往生際が悪ィぜエース」
銃口はまだこちらを向いている。視線がサッチを見て、猫を見て、マルコを見る。迷うような銃口と視線から背を向けて、マルコは半分ほど割れた酒壜の列の間からジンを取り出す。クーラーからグレープフルーツジュース。カウンターの中からマラスキーノ。シェイクしてグラスに注ぎチェリーを飾る。それでもまだ動かない野良猫にふと息を吐く。
おいで、と。いつかの仲直りの時のように。「死んでねぇから」
ビクリと肩を揺らして、エースはのろのろと銃を下ろす。タウザーが足元を離れ、優雅に歩いてスツールの定位置に座る。促されるようにエースが近づいて、タウザーとサッチの間に潜り込んで、眉をしかめた。
「…椅子、がたがた」
「てめェが壊したんだよい」
「そうだっけ?」
なかなか手を出さないのに焦れてグラスを押しやれば、少し躊躇ってからようやくそっと引き寄せる。薄い縁に口付ける。唇を舌で湿して、猫のように目を細める。
「美味い」
知らず笑みがこぼれた。「そりゃ良かった」
エースが目を見開いて、ぐっと顔中を歪めて、すぐにくしゃっと笑った。「ただいま」
おまえらおれをおいていちゃつくんじゃねえ!間髪いれずにサッチがわめく。おかげでマルコは胸に迫り上がった感情を無様に晒さずにすんだ。でなければ――泣いていたかもしれない。
大げさに嘆き騒ぐサッチの脇腹にエースがグラスを持ったまま肘鉄をきめる。真っ赤な顔を誤魔化すように喚く。
「サッチの阿呆!いちゃついてなんかねぇよ!」
「え?そこ?よりによってその返しなの?!」
羞じらう仕草にしては強力すぎる一撃にサッチがスツールの上で悶絶する。途端にぎゃあぎゃあと騒ぎ立て始めた二人から、呆れたという風情でタウザーが離れる。それを見てマルコは笑った。久方ぶりに声をあげて笑った。
エースに撃たれた後、マルコが意識を取り戻したとき、感じたのはまた死に損なったということだった。いつの間にか来たのか、しけた面をしたサッチと無表情のイゾウが覗き込んでいた。容赦なく痛む肋骨に耐えて起き上がれば、胸の下には血の代わりに赤い酒の水溜まりが広がっていた。匂いからすればカシスリキュール。その中に転がる、弾頭―――鉛ではない、硬質な素材の何か―――を拾い上げればだいたいの事情は、その場にいる誰もが悟った。
店を見張っていたイゾウの手勢の報告によると、まずはチンピラが店から転げるように逃げ出し、その後に現れたエースは、駆け寄った彼らに一発だけ威嚇射撃をして逃げたとのことだった。何の悪運が働いてか、店休日だった両隣のおかげで、あれだけ騒いだにも関わらず警察が駆けつけることはなかった。イゾウとサッチの手を借りてエースの指紋と、一発だけのトカレフの弾丸を回収する。知り合いの闇医者で折れていた肋を処置してもらう間にも、不思議と怒りは湧かなかった。
エースは、何もかも最初から仕組んでいたのだ。マルコの銃を受け取ったとき、―――間抜けにも自分から渡したが、貸せといわれたら渡していただろう―――残弾を確認していたのではなかった。おそらく、仕掛けのある弾の入った弾倉ごと入れ替えた。ご丁寧に二発目から仕込んだ弾倉と。そうしてエース自身につく監視を引き連れて来た。
酒壜の位置と立ち位置を計算して。マルコをベレッタで撃つのと同時に、自分で持っていたトカレフで酒壜を弾く。零れた酒が意識を失って倒れたマルコの周囲に広がり、かくて死体の出来上がりというわけだ。言えば簡単だが、まごうかたなき神業だ。襲撃者の目から銃を隠して、左右完全に同時に撃つ。銃声を銃声で消して。目的の壜を精確に弾いて意図した場所に、意図した状態で飛ばす。弾痕の位置がそれを示唆していたが、エースの出自を知っていてもにわかに信じられるようなことではない。しかし実際に、襲撃したチンピラの報告から「不死鳥」は死んだことになっているらしいと後ほど聞いた。
そこまで完璧にやり遂げて、エースは消えた。
まがりなりにも自分の属する組織を騙したのだ。恐らく戻る気はないのだろうとサッチが嘆いた。真顔でかぶりを振って馬鹿なガキだとイゾウが呟いた。その声にわずかに感嘆の響きが混ざっていた。だからマルコは賭けに打って出る気になった。イゾウを説き伏せてその足で「白ひげ」の元を訪ねた。猫の心中を慮ってそのまま逃がしてやる気など欠片もなかった。
「あんたが死んだってネットで見て。そんなはずないと思ったけど、肋骨ぐらいは折れただろうし、動けないところに新手が来たのかもしれないって思ったらいてもたってもいられなくなった」
酒を舐めながら、ぽつりぽつりとエースが話す。あの記事は誤報?と聞くので、まさかと答えた。「まさか。オヤジの伝手で情報と引換に少し間違えてもらっただけだよい」
スクープ記事との引換に、若干の誤情報。次の号の片隅には小さく訂正とお詫びの記事が載るだろう。
「……やっぱりあんたは嘘吐きだよな」
わかってたのにと口惜しそうに零す。サッチが同情するように馴れ馴れしくエースの肩を引き寄せる。
「おまえ、こいつの二つ名知ってるだろ」
「『不死鳥』?」
「そうそう。こいつは殺しても死ぬようなタマじゃねぇの」
「おれが名乗ったわけじゃねェよい」
「そっか…。でも本当で良かったよ」
「…………」
この青年は、まったくもってオッサンを絶句させるのが上手い。一拍置いてうりうりとエースの頭を撫でるサッチを隠れ蓑に、マルコは俯いて強いて無表情に二杯目を作り始める。大人二人の無言と葛藤を気にすることもなく、エースは言葉を続ける。
「あんたのことは、話でだけは知ってた。でも当人だって気付いたのはベレッタ見たときが最初」
あんたの視線が何もしてないときに、いくつかの場所に行くのに気付いてた。何か隠してんだろうって探したら案の定だった。タダモノではないと思ってたけどさ、まさかそんな大物釣ってたとは思ってなかったと、ニヤリと口の端を歪める。
「でも、そうだとしたら、さすがにやべェと思って。おれ見張られてんの知ってたし、ここが実質『白ひげ』の持ち物だってのも調べがついてたから、このままだとあんたの正体もばれちまうと思った」
やんなきゃいけない仕事もあったし、と、小さな声で言い添える。
「戻んねェつもりだったけど、急にあんたの居場所の情報が回り始めて。的外れのものあったけど、ここも話に出てた。だから急いで戻ってしばらく見張ってた」
マルコがエースの失踪に焦燥にかられていた間、彼は以外にも近くにいたらしい。動揺を見られていたわけでもあるまいが、何となくいたたまれない。
「そうしてたら何だか知らないけど、いきなり店の周りにいたチンピラが減って、チャンスだと思ったんだ」
サッチが北海道で暴れてきたときのことだろう。リーゼントを横から突きだして、サッチがさかんに主張する。
「それおれ、おれのおかげね」
「うるせェよい。もともとてめェが騒いだせいで集まったようなもんだよい」
「そうなんだ?でもやっぱり最初はおれのせいだろ?…あんたが身ィ隠してるなんて知らなかったからさ。ごめんな」
「おれも油断していた。…おまえは悪くないよい」
「…なんかさ、おれとで態度違いすぎない?ねぇ」
いじけるサッチを放っておいて、エースの三杯目はマルコの血の代わりになったクレーム・ド・カシスに白ワイン。少しだけ甘めにつくる。照明を壊していたとは言え、よくこんな甘い香りで騙されてくれたものだ。もっとも、あの場に溢れていた血臭と硝煙にまぎれてしまったのかもしれない。フルートグラスを差し出せば、エースも可笑しくてたまらないというように破顔した。そのまま、あぁ、と呟く。
「あんたの無事もわかったし、おれ、このあとどうしようかな」
猫のように背伸びをして、からりと晴れやかに笑う。自らの組織を裏切って、さらに「白ひげ」からも追われている人間の見せる明るさではない。なのにそれはひどくエースらしいと感じる。
生まれたときから裏切り者だったとサッチが言っていた。悪党の父親と警官の母親が、共に属する世界を互いのためだけに捨てた。その子どもはどこに属していても、どこにも身の置き場のない人間になってしまった。
その上、それでもエースはかろうじて立っていた足場を今度の騒ぎですべて外してしまった。ひどく不安定なはずなのに、ひどく清々として見えた。足場を外させた原因のひとつは己だと、考えるのは自惚れではないはずだった。そこから逃げるわけにはいかなかった。こちらを見上げる眼差しがただただ嬉しそうなだけで、何も見返りなど期待していないのがわかるから尚更。
だから今度はマルコの番だった。
「エース、…おまえ、オヤジに会ったんだってな」
「うん」
「イゾウがカリカリしてやがるから何をやらかしたかと思ったら、警備かいくぐって、ただ見にきたって言ったんだってねい」
横でサッチが目を丸くする。鉄の結束と規律を誇る「白ひげ」の、しかも白ひげ本人に対する警備を単身破ったというのだから驚くのも無理ははない。その上、エースはトカレフを懐に呑んだまま、白ひげに、ただ見に来たと告げたのだと聞く。
エースは決まり悪そうに頭を掻く。
「探って来いって言われただけで、殺れって言われたわけじゃねぇし」
不遜なもの言いは「白ひげ」の幹部連中が血眼になって捜すのも無理はない、と言いたいところだが、本当は少し違う。
「どうして、会いに行こうなんざ思ったんだよい」
「……昔、よく話を聞いたんだ。おふくろと、じいさんから」
そう言って、そういえばあんたは知ってるんだったと呟く。
「死んだチチオヤにとってずっと天敵だったってみんな言うんだけどさ、おふくろがあんまり懐かしそうに話してたから、どんな奴だろうと思って」
「会ってみてどうだったよい」
「……わかんねェ。すげェでかかった。…おれの名前言ったらすっげェ笑ってた」
言葉を濁して目を伏せる。
「オヤジに、『白ひげ』に入れって言われたんだろい」
「…意味わかンねェよ」
イゾウから聞き出した経緯は、そういうことだった。見に来たと言ったエースもエースなら、鉄砲玉かもしれない若者をその場で勧誘したオヤジもオヤジだ。同情してやりたい気もするがイゾウもたいがいイイ性格をしてやがる。エースを探していたのは報復をするためではなく、オヤジがエースの行方を案じたからだった。こちらを恫喝するような真似をしたのは、単に警備を破られたことに対する腹いせだ、と本人があっさり認めた。
「オヤジは向こうっ気の強ェのが好きなのさ。一人で正面から『見に』来た奴なんざ初めてだって言ってたよい」
本当は、エースの父親であるロジャーと白ひげが、敵同士でありながら長く友誼を結んでいたことをマルコは知っている。エースの両親が「組織」の追手を振り切って姿を隠した時、白ひげの助力があったという噂もあった。だが、それはエースにとっては無用のことだ。
「オヤジはおまえを気に入ったんだよい」
「…そんなの信じられねぇ」
グラスを抱えてふいと横を向く仕草がまるっきり拗ねた少年のようで、マルコには可笑しい。エースはきっと分かっている。一度しか会っていなくとも、白ひげが甘言を弄するような人物ではないことを。かつてマルコもそうだった。かつて裏切り者だったのはマルコも同じだ。
生涯に、もう一度誰かに忠誠を誓うことがあるとは思っていなかった。
「おれは正式にオヤジの下につく」
空になったエースのフルートグラスを引き寄せる。新たなグラスをセットして、ターキーのライを選り出す。エースの好きな酒ばかりが残っているのが悪運の強さを物語っているようで苦笑する。
「おまえの件を不問にするのが条件だ。ただし向こうも条件をつけてきたよい」
見上げてくるエースの眼差しが、はっと揺れる。
エースにとっては、マルコの行いで自らの騒ぎを不問にされる謂われがない。つまりこれはただのマルコの身勝手だ。本当は。しかし身勝手ならばエースも同じだ。エースはマルコの死を擬装して逃げた。マルコはエースにかばわれる謂れなどない。本当は。
スイート・ベルモット、アンゴスチュラ・ビターズ。マラスキーノ・チェリー。初めて出会った時、二度と会うことはないと思っていた。二度と、失う者は持つまいと思っていた。グラスを滑らせてどちらか選べと告げる。
「『白ひげ』に入るか、堅気になるか、だ」
堅気になるなら、金と身分と旅券は用意してくれる。条件ですらない、ただの厚意でしかない申し出。白ひげはエースのことを良くわかっていた。マルコには、想像しかできない。警官として将来を嘱望された母親と、最悪と呼ばれた極道者の父親との間に生まれ。堅気になりたくともなれず、「組織」に入ったとしても馴染めず。自らの責ではない理由で詰られ、望まない望みを押し付けられ、力を持て余し、感情を持て余していた。
―――エースは不安定だった。引けば落ちるのかもしれないと思った。こちら側へ。引いてはならないのだと思っていた。かつていた人のように。明るい世界にいれば、この青年はどれほどの人間を魅了するだろうかと。そう、思っていた。
向けられる感情に、気付かないはずもなかったのに。
「……おれは、」
言い淀むエースの言葉を遮る。
「…おまえも、こっちに来いよい」
視界の端で、沈黙を保つサッチがひどく愉しそうにニヤリと笑んだのが見えた。強いて気付かないふりをする。ああ、まったく道化のようだった。かつてエースが言ったことがあった。ここから出てこいと。
カウンターの奥から銃を引きだす。ベレッタと、使い古したホルスター。投げ出したそれにエースが何が起こるかと目を丸くする。
無造作にボウタイを引きぬく。ボタンをひとつ外して首元を緩める。言葉もないエースの前で、ショルダーホルスターをベストの上から装ける。馴れた手順でストラップを締め、脇下に銃身を収める。袖のボタンも外し、黒いジャケットをはおれば、おそらくもうまともな人間には見えまい。骨の髄まで裏の人間だった。
まるであらかじめそこに壁などなかったように、カウンターを出る。多分どこにも境界線はなかった。最初から。
「行くよい」
手招けば、野良猫は泣きそうな顔でかぶりを振った。
「…どこに」
「オヤジのところだ」
「おれは、いけない」
「連れていくって約束しちまった」
「…おれは、行けねェよ」
エース、と呼びかける。その名を呼ぶことがひどく甘かった。
―――生涯にもう一度だけ、誰かに乞い焦がれることを、自分に許した。
「おれと来いよい」
それとも、と、ほのかに自嘲する。
「……堅気になりてェかい?」
手放せるだろうかと自問する。再び失えるだろうかと。胸が締め付けられるように苦しい。滑稽で哀れでみっともなかった。それでもかまわなかった。
エースは鳶色の目をゆっくり瞬かせた。再び瞠いたとき、そこに迷いはなかった。怖いぐらいに透明で、陶然とするほどにうつくしかった。
「おれは、…あんたがいる方がいい」
…かつて捨てたはずの名が追いかけてくることを忌避していた。死にたいと思ったことはなかったが、死に損ねたと思うことは多かった。それもたぶん終わりなのだと思った。
「―――エース」
差し出した手は、しかしあいにくとってはもらえなかった。野良猫は一息に目の前のグラスを空けると、するりとスツールを降りる。白いスニーカーが荒れた床を踏んで、つれなくもマルコの横をすり抜けてドアへ向かう。差し出した手を宙に浮かせたままマルコは笑う。
エースの胸元でわずかな振動音を鳴らす。肩を揺らした青年がおそるおそる振り向くのに、見せびらかすように携帯電話をかざす。
「携帯の番号、教えてなかっただろい」
真っ赤な顔で憤然と出ていく青年をゆっくり追いかける。きらきらと散らばるガラス片を踏みにじる。かつての光景をふと懐かしむ。
開け放った扉の外に広がる世界を、マルコは初めて見る景色のように眺めた。夜と朝の狭間の薄明かりの中で、エースが笑っていて、それが全てで良かった。
夜明けが近かった。
華やかな時間を過ぎた繁華街は薄汚く素気ない。ただ好天を予想させる風が清々と籠った夜の悪臭を吹き飛ばしていく。
払暁の薄明かりの中を、二人の人間が並んでゆっくりと歩いている。片方が風に逆らって煙草の火を着ける。
おれ、指の一本くらい詰めさせられるかな、と青年がぼやく。
少し後ろをのんびりと歩くもう一人は、くわえた煙草からゆるりと煙を吐き出す。
オヤジはそんな狭量じゃねぇよい、答えて、少し黙る。手土産でも用意しときゃよかった。
あんた、本当に大丈夫かよ、欠片も疑っていない顔で青年が憎たらしそうに笑う。
ゴミとカラスと吐瀉物の間を青年は軽やかに跳ねるように歩く。自由に、無邪気に、何の束縛もないように。
アルコールの回った足元が少しだけふらつく。バランスをとるように伸ばされた手をもう一人の手がとる。慌てたように一度離れて、すぐに青年から指先だけを繋ぎ直した。互いの人差し指と中指だけ。軽く引っ掛けたまま、青年は背後をくるりと振り返る。サッチ、と呼びかける。
二人の後ろ、少し離れたところを歩いていたサッチは片手で猫を抱えたまま、もう片方の手を軽くあげた。青年と指をつないだまま振り返らない「親友」を眺めてほくそ笑む。
「サッチ、なァ、あんたも来るの?」
「おうよ」
おれこう見えても功労者よ?「白ひげ」に直々に呼ばれてんだぜ。猫と一緒にというのがいささか気になるが繋げるパイプは繋いでおくつもりだ。その方がいざというときにこの二人の援護になるだろう。
「おれ、ずっとタウザーが何に似てるのか気になってたんだけどさ」
風に抗うようにエースが叫ぶ。屈託を感じさせない明るく伸びやかな声。あの声で蜥蜴食らうか。そう思って笑ってしまう。それほどに当たり前の若者だった。最初からそうだったし。正体を知った今だって、そうだった。
「『白ひげ』に似てンだよな。――口ンとこだけ白いとことか、貫禄とかさ」
「そーいやそうさな。道理で」
「何が道理?」
「こいつ、あの日おれンちまで呼びに来たんだぜ」
風邪で寝込んでたところをしつこい鳴き声で起こされた時には猫鍋にしてやろうかと思ったが。追いかけて行った先でマルコが血の海―――もとい、酒の海で倒れてた時にはさすがに肝が冷えた。わけもなくエースの仕業だと確信したのを覚えている。
「どっかのはげたおっさんよりよっぽど役に立つ」
「そりゃテメェもだよい」
猫ほどの役にも立ちやしねェくせに。期待通りに毒づかれても、あいにくお手々つないだその格好じゃサマにならない。大笑いしたいのを堪えて、エースがマルコに楽しそうに話かけるのを後ろから見ている。
昔、不死鳥と呼ばれた男が、何もかもを捨てて得たはずの人間の、その手を永劫に離したことを知っている。
かつて人の望む多くのものを持って、それでも惚れた男のために全てを捨てた女を知っている。惚れた女のために全てを捨てた男のことも。間違いなくその潔さを継いでいる子どものことも。
損得のわからない者ばかりだった。それで良かった。夜が明けきれば、正しい光の下であの二人を繋ぐ魔法は解ける。明るく正しく退屈な世界では、あの二人はきっと息ができまい。銃と硝煙と嘘と欺瞞と。裏切りと後悔とそれゆえの互いへの執着。
そしてまた、こうやって関わりをもってしまうサッチ自身もきっとそうなのだ。
ふさりと尻尾の余韻を残して腕の中の猫が逃げ出す。何も言わずとも後を追う四足につき従う。ああまったくもってどいつもこいつもが。
「―――ほっとけねぇ」
アルコールと夜と媚びない猫のいる世界に馴染んでいる。
(いねこ)
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