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七 話
チャララララ、と長く尾を引いてドアベルが響く。現れた人影は、レアなことにここ数日一度も姿を見せなかった(といって、別段恋しくもなんともない)男だと気配で知れたので、マルコは振り向きもせずに「今日はもう看板だよい」とそっけない言葉を投げた。
「なーにが『看板だよい』だ、えっっらそーに!」似ているかどうか本人には判断しかねる口真似をして、いっつも開店休業みたいなもんだろが、とひとしきりぶつくさ言っていたが、一向に相手にされない不毛さが虚しくなってきたのだろう。「――はい、おみやげ。いやー、ホントやさしーな、おれ。こんな愛想のない奴にまで、ちょー親切」
至近距離から飛んできたビニール袋を、片手で難無くキャッチすると、サッチが舌打ちをする。中を覗いて、マルコは眉を寄せた。
「『白い恋人』?……土産ってお前、北海道くんだりまで出かけてたのかよい」
「まぁな」らしからぬ嗄れ声で肯定すると、壁際の床にくずれるように座り込んだ姿が、曜日を間違えたゴミ袋に似ている。「いつもの」
嘆息して、冷蔵庫から一杯分あるかないかのミルクを取り出す。タウザーが居合わせなくて助かった。機嫌をそこねてしまうところだ。
「……今日のところは、それにしとけよい」
「いやん、って言ったら取り上げる気だろお前」はは、とわらって、とうとう本格的にサッチは咳き込んだ。「風邪にホットミルク。ノスタルジックですこと」
「椅子に座るか、帰るって寝るか、どっちかにしろよい」
「やだ」
「風邪菌、店に撒き散らしやがったら承知しねェよい。馬鹿言ってねェで、叩き出される前に――」
「ようやくエースの身元が割れたのよ。このサッチ様がこんだけ手こずらされたの、マジ初めてじゃね?」
「おれがいつ、そんなもん探れってお前に頼んだよい」
「アホか。お前の頼みだったら、金だけぼったくって、あとは何かテキトーにでっちあげて終いだっての」さも嫌そうに、サッチは口を歪めた。「あいつが何かヤバそうな立場に居ンの、気付いてンだろ?なら、いつかここに帰って来たとき、知らずに地雷踏んじまって後で死ぬほど悔やむとか、そういうのだけは何としても回避したいだろが。おれが探ってきたのは、そーゆー話だよ!」
激昂して、また咳き込む。
「……期限切れの風邪薬でよけりゃ、たしか店のどっかに――」
「いらねーよ。そもそも期限切れって、具体的に何年前よお前の中じゃ」
五年、と答えるとサッチは深々とため息を吐いた。
「名前はルージュ。聞き覚えは?」
「一度や二度寝ただけの女の名前なんざ、一々覚えちゃいねェよい」
「んまあ、イロオトコさんね」浮かぬ顔で、おざなりに手を叩いてみせる。「時々クソだよな、お前」
「お前に言われたかねェよい」
「そーでしょーとも」サッチは鼻で笑って、ちいさく畳まれたスクラップとおぼしき紙を数枚、ジャケットのポケットから取り出すと、マルコに放ってきた。「見てみ」
無言で、少し色褪せているような、その紙切れを広げる。
「いつのオリンピックだよい。あいにくどの女にも見覚えは――」
次に続くはずの言葉を、マルコはぐっと飲み込んだ。なるほど。
「ないとは言わんわな。さすがにそれはぶん殴るぜ俺」
低くはない熱がありそうな目付きでだるそうにこちらを見上げて、サッチは両の拳の骨を鳴らした。
「……似てるよい」
「だな」
あらためて、マルコは手のなかへと視線を落とした。『総力特集 五輪に咲き誇る花々』と太ゴシックのタイトル。美女たちのショットを散りばめた見開きに続くページで、眩しいような瑞々しい笑顔をこちらに向けている水着姿の娘は、造作的には美形から程遠かったが、マルコでさえ、すぐには目が離せないほどに魅力的だった。
「しかもよりによって――」
「なのよ」
ためいきが洩れるのを抑えようがない。『こんな婦警サンにならタイホされたい!』の文字が躍るスクラップを、暫しマルコは凝視してから、サッチへと投げ返した。
「射撃の日本代表かよい」
「正確には、代表候補で終わったけどな」
ポートガス・D・ルージュ。
容姿からの印象とはかけ離れた射撃の名手である彼女は、「その銃には彼女と同じ血が通っている」とまで絶賛され、よほどのアクシデントでもない限り、出場すればメダル――それもおそらくはゴールドの――獲得は確実と評されていたらしい。
「おれはちょっとだけ、ルージュって名前に聞き覚えがあったんだわ。見た目と職業、あと競技種目とのギャップが面白いってンで、マスコミが取り上げ始めた頃だったんじゃねェかな。その写真は、学生時代にゼミ仲間と海へ遊びに行ったとき写したのが流出したみてェなんだけどよ、こりゃ反則じゃねってくらい可愛いだろ。警察もイメージアップを図るのに最高の人材だって思ったらしくてよ、発売間際にこの雑誌の特集内容嗅ぎつけて、彼女だけちゃんとワンピース着てるやつに差し替えさせてる。そっちもまあ、キュートには変わりねェけど、ばっちりメイクで雀斑がだいぶ消えちゃってるのよ。オマワリって、ホーントわかってねーのな」
かすれ気味の声で熱弁をふるったものだから、またもや酷く咳込んでいる。マルコは口を開きかけて止めた。どうせ言っても無駄だ。
「代表候補で終わった、ってのは?」
「んー?家庭の事情により、急遽、職を辞して海外へ移住することになったから」ふう、とサッチは肩の力を抜いた。「――ってのは表向きの話で、とんでもない相手と駆け落ちしちまったから、ってのがズバリ真相」
「勿体ぶるなよい」
「偉ぶるなよい」んべー、っと舌を出す。「聞いて驚け、オリンピックで国民的ヒロインになる未来を約束されていた婦人警官はだな、なンもかンも投げ出して、よりによって、稀代の大悪党、ゴール・D・ロジャーの許へ走ったんだよ」
「――――」
(ここは、狭すぎる)
そんな言葉でマルコに別れを告げたあの男の記憶が、耳の奥で勝手に再生を始める。ロジャーってのは面白い奴だよな、と次から次へと資料を読み耽っていた、あのとき既に兆しはあったのだと、自分の迂闊さをあとになってどれほど呪ったか。王にしかなれない男どもは、遅かれ早かれ、世間の柵に縛られた人生を捨ててゆくのだと、自分に言い聞かせることができるようになるまでには、それなりの時間が必要だった。
「……それで」
「この件に関しちゃ、トップシークレット扱いみたいだな。知ってんのも上層のほんの一握りらしい。誑かされただの、いや狙いは他にあっただの、いろいろ言われてるけどよ、どうやらお互い本気の大恋愛だったんじゃねェか、って調べてておれは思った」
「つまり、父親ってのは」
「とーぜんロジャーってことになるわな。知ってのとおり、父親は捕まって早々くたばっちまって、あいつはだから、母親とふたり、世間から隠れてひっそり暮らしてた。その母親も学校に上がる前に亡くしちまって、それでようやくエースの存在を知った遠縁の男に引き取られたってわけだ」
「……あいつは――――」
「生まれながらに裏切り者ってカンジ?」そっけなくサッチは眉を上げた。「警察連中、カンカンだしよ。配下の連中はルージュを『いつ俺たちをサツに売るかわからねェ胡散臭い女』とみなしてた。たったひとりの身内を亡くしたひとりぼっちのガキを引き取ってやるどころか声ひとつかけようとしなかったっていう親戚連中が、あいつをどんな目で見てたか、まあ想像は付くわな」
ああ、と言ったきり、言葉が出てこない。偶然再会したときのエースを思い出した。多勢に無勢は、彼にとってはいまさら恐れるほどのことではなかったのだろう。そこに至るまでの孤独と、そうしてそこに現われた自分が、彼の目にはどう映ったか。
「行方を眩ましたあとのルージュについては、二つの逸話が残ってる。うちひとつは、俺たちがアタマに入れとくべき話だ」
ぬるくなったミルクを、情けなさそうにサッチは飲み干した。お代わりはと訊くと、いつものミルク抜きで、と投げやりに返す。残りわずかになった芋焼酎の一升瓶を抛ってやると、やけくそのようにラッパ呑みしようとして噎せ、見事な霧を噴いた。銘柄どおりの、まさしく『霧島』。
「内部抗争で暗殺を企てられたロジャーが、偶然工事現場から落下したフェンスに銃弾を遮られ命拾いしたことがある。その強運ぶりに、反対派も沈黙せざるを得なくなったらしいが、実は現場検証の結果、フェンスを固定していた箇所を精確に抉った銃痕がいくつか残されていたことが発見された。それがひとつ」
「狙撃手の狙いを完全に読んで見事に阻止して見せたってわけか。死人も出さずに演出効果は絶大。とんでもない女がいたもんだよい」
「んで、さらにもうひとつ。そのとんでもない女は、ロクに買い物にも行けない暮らしのなかで、おもちゃ代わりにと、弾を抜いただけの銃をガキに与えていたそうだ」
どーよ、とサッチは不機嫌な視線を寄こす。どーよも何も、とマルコは、吸うことを忘れてしまったかのように、深いふかいため息を吐いた。
「よくそこまで探ったもんだよい」
「……あー、まさにその件なんですが」もじもじとサッチが姿勢を正す。「悪ィ、『不死鳥』を見かけたって情報と引換にしちまった。交換条件ってやつ?」
「――お前」
「うわ、最後まで話聞けって!」
殺気には敏感らしい。おお怖、と身を竦めるとサッチは例のリーゼントを片手でかきあげるようにして――外した。自分の羽で機織った気分だぜ、とサッチが薄気味の悪いことを言う。ヅラだったのかよい、と呆れかけたマルコは、その下から現われた髪型に驚愕した。
「いつかこんな日がやってくるんじゃないかと、自毛でウィッグこさえといて助かったぜ……まさかここまで酷い髪型にする羽目になるとは夢にも思わなかったけどよー」
うふふ、あたしたちお揃いねっ、とやけを起こしたらしいサッチは、おまけ、とジャケットとシャツの前を外した。シルバーのペンダントが揺れる肌には、見慣れた刺青。このアタマでこれ見せびらかして歩いてたら、風邪引いちまった、と情けなさそうにこぼす。
「どういうつもりだよい」
「訊くまでもないでしょ?囮だよ、囮。マルコなら北海道で見かけたって言っちまったからな。ススキノでアタマの悪そーな奴らに因縁付けさせてー、ガマンの限界越えちゃった設定で派手に暴れてきました。髪型と刺青、あとはブルーのカラコン入れりゃ、そんだけ隠れてたんだ、面識ねェ奴らには見分けなんかつかねーよ。ひょっとしたらって疑ってた奴らだって、目撃情報が流れた夜にこの店営業してたとなりゃ、なーんだ、って諦めるだろ?まさに一石二鳥。まさか休んだりしてないよなお前」
「……休む理由がねェよい」
「んじゃオッケーな。どーもこの感じ、サッチさんは当分寝込んじゃいそーな気がするわけよ。あとはお前、なりふりかまってねェで、あいつ捕まえてやれや」
あと芋焼酎ちゃんと入れとけよ、泣くぞ、と言い残して、サッチはドアの向こうへとよろよろ姿を消した。
チリン、と耳を疑うほど可憐にドアベルは鳴いた。
視線の端に捉えた、いまさら見間違えようもない癖っ毛に、マルコはあえていつもどおりを装った。迂闊に近寄れば逃げられてしまう――そう考えている自分に苦笑する。どこか似ているけれど、エースは野良猫ではない。
両隣は今日が定休日だった。本来ならマルコの店もそうで、だから他の客のひとりもいなければ、物音ひとつしない。
「おれは――」
スツールが鳴いた。エースの指定席は、前に重心がかかるとそんなふうな音を立てる。最初からずっとそうだった。いざというときにすぐ動けるよう、浅く腰掛ける――この歳でもう、それが当たり前の生き方をしているらしい。
つと手を伸ばして、エースはタウザーにふれた。言葉の続きがそこに隠れているとでもいうように、そろりと撫ぜる。こっそりと猫を飼っていたことのある手付きだった。骨のカタチを指でなぞる。内臓の音を掌で聴く。どこか淋しそうな顔をする。
「預かってろよい」
「――これ」ぱしん、と掌で小気味よい音を立てたものを目にして、エースは目を瞠った。「たしかあんたの」
「かかってきても急ぎの用なんざありゃしねェ。あとで、おれの手元にはなかったって言い抜けすりゃ済む話だよい」
「――わかった。なら、おれのはあんたが預かっといてくれ」
急ぎの用なんかない――それが嘘だということくらい、エースにはわかりきっていただろう。新たな情報ひとつで、どちらかが、或いはどちらもが、命を落とす羽目になりかねないこの状況で、ケータイが手元になかったで済むわけがない。
だからこそ、それが決して自分を枉げぬマルコが自分に与える、ギリギリの猶予であり譲歩であり、彼らには似つかわしくない、もっと別の感情の為せるわざであることを、他ならぬエースなら、よくわかっていたはずだった。
差し出されたケータイを、なんでもないことのように受け取る。おそらくはエースも、さして変わらぬ難しい立場にいるのだろうと知りながら。
「ああ」あれ以来、手元に置いていた黒い塊を、無造作にマルコは差し出した。ベレッタ。「これも要るかよい」
「――」
巣から落ちたヒナでも拾い上げるような慎重さでそうっと、エースは幼い頃の彼にとっては「おもちゃ」であった銃を両手で包んだ。目の前で、雀斑の似合う屈託のない青年の顔が、狙撃手の冷酷なそれへと変貌を遂げる瞬間を、殉教者めいたまなざしで、マルコは見た。
エースの手のなかを、ベレッタが優雅に泳ぐ。
「昨日はゼロだったよい」
「……え?」
「バカの分際で風邪引いたとか抜かしやがって、サッチひとり来やしねェ。このままだとさすがにこの店、潰れるよい」
「いまさら」くすっ、とエースは微笑った。「潰れてねェのが不思議だって、いつもおれ、言ってるだろ」
よけいな世話だよい、と苦笑まじりに返して、マルコはエースに背を向けた。この店で使う機会などそうそうないから、ブルーキュラソーは棚の端っこに置いてある。
背後でベレッタの立てる音など、警戒するどころか、まるで気にならない自分が不可思議だった。不可思議どころか、あらゆるしがらみから解き放たれたかのような、この爽快感はどうだ。
「――残弾数のチェックかよい」
向き直ったマルコに、エースは悪戯を見つかった子供の表情になった。弾切れじゃなくて安心した、と笑いながら、カチャッとマガジンを押し込む、ただそれだけの動きでさえも、見惚れてしまうほどあざやかで、マルコは術もなく敗北した。
テキーラ、ブルーキュラソー、ライムジュース。少し尖った頬骨のあたりにふれてしまいそうになるのをこらえて、無言でシェイカーを振る。なあ、マルコ少し痩せた?と小声で訊いてくるから、それはお前だろい、と苛立ちをそのままに返してしまいそうになる。
グラスを、手品みてェ、とあざやかな手際にエースが幾度かためいきを吐いたスノー・スタイルにして、シェイカーの中味を注いだ。ブルー・マルガリータ。
「お前を、待ってたよい」
綺麗すぎるような蒼に魅入られたように、グラスへとのばされた、その指先を掴まえて握り込んだ。エースが息を呑む。それでも、振りほどかれはしない。とうに知っていたことだ。必ずしも言葉にする必要のない、大事な、こわれもののような何か。掌が熱い。
泣きそうな表情にはわざと気付かないふりで、持ち上げたグラスを口許へと近寄せてやると、エースは目を伏せた。
「――あんたの酒が恋しかった」
「酒かよい」
「そうじゃねェよ、おれは――」
とおくを透かすようなまなざしで、グラスのなかの蒼をみつめる。それが、薄く色付いた唇を濡らし、咽喉を滑り落ちていくさまをマルコは目で追った。
誰にも言ったことねェんだけど、とかすかな声。
「おれ、海をみたことがなくてさ。海の水は塩辛いって言うだろ。でもきっとほんとうは違うよな、ってずっと思ってて」泣き笑いのような表情を、エースは浮かべる。「たぶん、こんな味だと思う」
「海、かよい」
――お前の顔を見たら、もうずいぶんと前に拝んだきりの景色を思い出しちまった。
どうしてこのカクテルなのかと問われたら、そう告げるつもりだったマルコは、代わりに、だったら俺と行ってみるかよい、と俯き加減の顔を覗き込んだ。エースが瞳を揺らす。何か答えようと、少し震えながら息を吸った、次の瞬間――
するりと手の中を擦り抜けた指が、流れるような動作で足首へ伸びるのと、隣の席の灰皿をマルコが掴むのとが同時だった。カウンターを突き飛ばすように反動を付けて、エースの姿がスツールから消える。キラリと一条の光のような軌跡を描いて、マルコの抛ったガラス製の灰皿が、頭上からぼんやりと手元を照らしていたひとつしかない店の灯りを精確に砕く。コンマ数秒ののちに、自嘲まじりの吐息を聴いた――互いが、互いの。
ガチャガチャと耳障りな音を立ててドアベルがわめきたてる。ひどく狭い入口から、かわるがわる真っ暗闇の店内を覗き込んだ五つの人影は、それぞれに口汚く罵ったが、あからさまな殺気を撒き散らして押し掛けてきた破落戸どもの為に、わざわざ通路の薄灯りで見渡せる範囲に居座ってやる義理などあるはずもない。
「そこに隠れているんだろう、裏切り者。一緒に居るのは『不死鳥』か?」さっさと中を照らせと命じる声。「組事務所の目と鼻の先とは、大胆な場所を選ぶもんだ。あれだけの騒ぎを起こして破門を喰らっておきながら、いい度胸をしている」
唸り声を上げて、まずはひとり、スツールを踏み台にして土足でカウンターによじ登ろうとする。払い落されたグラスが割れもせず、通路から差し込んでくる光に憧れるように、床をコロコロと転がってゆくのを、肩を竦めてマルコは見送った。エースが現われたことによほど動揺したのだろう。泥酔客が取り落とすことを前提にした、プラスティック製の安物に酒を注いでいたらしい。ガラスでさえねェのかよ、ときっとエースは声を殺して笑っているだろう。
カシャーン、とグラスの割れる音に注意が逸れた一瞬の隙を衝いて、礼儀知らずのみぞおちに、容赦なく靴先を捩じ込んでやる。腹筋に脂肪の勝る、間の抜けた感触に、マルコはうすくわらった。うずくまる巨体を向こう側に蹴り落として、わざわざとどめを刺すまでもない。
風が唸るような音に、反射だけで身を沈ませる。一人めに続こうとした闖入者に気取らせぬ用心にか、避けろとこちらに声をかけることさえなく叩き込まれた手加減なしの拳。髪の数本を道連れにされたマルコの耳が拾った、ぐしゃりと厭な音からして、どうやら鼻骨でも潰されたのだろう。一声呻いて、そのまま床に沈む。
おお怖、とマルコは秘かにほくそ笑んだ。この街で再会を果たしたあの日の光景が脳裏に甦る。エースをガキ呼ばわりできるということはつまり、その実力を何も知らない阿呆だと言うことだ。
一斉にエースに向けられた襲撃者どもの三つの銃口の前を、尻尾で嘲笑うようにふっさりと黒猫が横切ってみせる。引鉄を引くタイミングを外されたと、そちらを見なくとも知れる間の抜けた銃声。予想外の展開に血迷ったのだろうが、タウザー一匹にひとり一発、計三発発砲しておきながら、あれでは残像すら撃てまい。偶然とは思えない絶妙のタイミングでグラスを倒して連中を撹乱してみせたことといい、マルコの目には贔屓目でなしにリーゼントスタイルに拘る何処かの誰かよりも遥かに有能に映る。
お粗末な乱射に次々と砕け散った棚のボトルから、それだけで酩酊してしまいそうなほど濃密にたちこめるアルコールの匂い。至近距離からの避けようがない一撃を、マルコは傍らから銃ごと弾き飛ばして妨げた。長いブランクを経ても、まだ銃の腕は鈍ってはいないらしい。ヒュウ、とエースが吹く口笛に見送られて、いっそ優雅に、扉のわずかな隙間をタウザーは擦り抜けた。
咄嗟に掴んだ腕を力任せに引き寄せれば、ひらりとカウンターを飛び越え、エースがこちら側に墜ちてくる。着地の際に少しバランスを崩した躯を受け止め、こんなときだというのにそれだけでは手放してやれず、刹那、さながら人の形をした熱そのもののような輪郭を、マルコは抱きすくめた。ぐいと引き寄せた背骨から脇腹にかけて、きっと酷い色の痣を残しただろう。
何か言いたげに、けれど結局何も言うことなしに、エースはおとなしく、首筋のあたりでため息を吐いた。
「裏切り者同士、いつのまにか手を組んでいたとは、なかなか意表を突いてくれる。相手を選ばないのは、母親の血か?」
激昂するのではないかと引き止める力を込めたはずのマルコの腕のなかから、こともなげにエースは身を起こすと、カウンターの向こうの敵の前にその姿をさらす。当然反撃してくるものと構えていた分だけ一瞬反応の遅れた相手のスーツの裾を、闇のなか、稲光のように軌跡を描いたナイフで、深々と床に縫い止める。焦って身を屈めた頭部めがけて、マルコが思うさま投げ下ろしたブロック・アイスは、ごッと鈍い音をさせてその男を昏倒させた。いったん引こうと考えたのか、扉に手を掛けた男の手首すれすれのあたり、またしてもナイフで袖を突き貫いた。
「残念。脚は二本あンだよ。隠しナイフも当然二本。片方しか使わねェってのは、ちょっと贅沢すぎるだろ?」
ちなみにこっちのは、あんたらの言うジャック・ナイフってやつさ、と刃をキラリ閃かせながら、悪党面でエースがわらう。完全に頭に血が上ったらしい男が、自分を扉に磔にしているナイフの柄をぐッと引っ掴んだ途端、絶叫を響き渡らせた。指、ゆびが、と半狂乱で血を撒き散らす。それへ顔色ひとつ変えることなく、いかにも大事そうにエースは、放り投げられた得物を受け止める。
「おおかた、そこの釦でもうっかり押しちまったんだろ。素人に使いこなせるオモチャじゃねェよ。切り口は綺麗なはずだから、急いで医者に駆け込めば、詰めた指、どうにかくっつけて貰えるかもな」
腰抜けが尻尾巻いて逃げてくのなんざ、いちいち律儀に追ってやれねーよ、といっそやさしげな口調におそらく他意はないのだろうが、これでは逃げるに逃げられまい。
切断された指はどうやら四本。血臭が、次第に咽返るほどになってゆく。
「その傷で出血多量で死んだら笑いもンだぜ、そいつ。闇医者の心当たりくらい、いくらドサンピンでも、ひとりやふたりあンだろ?」
「なアに、すぐに片付くさ」未だ無傷で立っている最後のひとりに、慌てたようすはない。「不死鳥もお前も、きっちり始末してな」
「引いてみろよ、引鉄」向けられた銃口にエースは慌てた様子もない。「一発で殺せるのはひとり。こっちはふたりで、おれのナイフの腕前なら、たったいまその目で見たろ。そもそもあんた、猫一匹も撃てねェくれェの腕前じゃァな」
「心配するな。お前は猫よりは大物だ」引鉄を引かないのは不利を悟っているからだろう。「今度は当たるさ」
「バァカ」けたけたとエースが哄笑する。「一か八かの賭けに勝つのは正義の味方だけだって、とっくに相場は決まってンだよ」
ここにいる奴らは全員アウトだな、と口の端を歪める。マルコの知らない――見せたことのない、昏い光を宿す瞳に、紙一重で愉悦に姿を変えそうな、きわどい凄味があった。
「勝ち目ないのはわかってンだろ。それ、仕舞えよ。おれはただ、そっちから仕掛けてきたから相手してやっただけだ。御丁寧にチャカにサイレンサーまで付けて、殺る気で乗り込んできたあんたらのな」
「――」
憎々しげに舌打ちして、男が拳銃を下ろす。ふう、とマルコを見据えてエースはためいきをついた。
「どうしようもねェな、あんた」
マルコの手から銃を取り上げて、全てを投げ出すような口調になる。
「そんなの、お前はとうに知ってたはずだよい」
マルコは薄くわらった。エースの手で、慈しむようにカチリとカウンターの上に置かれたベレッタを、羨ましいとさえ思う自分は、きっともうどこか壊れているのだろう。
「ベレッタはおれも嫌いじゃねェな。このシリーズの正式名称は――言ってもお前ら程度にはわかんねェか」息を呑んだ連中をそっけなく斬り捨てる。「さすがは『不死鳥』だけあって、チャカもれっきとした正規品だ。引退したって噂もあったが、こんなもン隠し持ってる以上、どうみてもカタギじゃねェな。間違えましたすみません、で済む相手じゃねェ」
「――トカレフなんて使ってンのかよい」胸筋を抉るように隠し持っていたらしい銃を押し当てられて、マルコは苦笑した。「暴発なんてされたら目も当てらんねェ。どうせなら馴染みのそいつで殺ってくれよい」
「そのくらいなら聞いてやれるぜ。どんな銃で殺られようが、死ねば同じだとおれは思うけど――手ェ出すな」我に返った男が、焦ったようにマルコに銃を向けてくるのを、酷く冷たい口調でエースは突っぱねた。「いくつも穴の開いたブザマな死体なんざ許せねェ。殺ったおれの銃の腕が悪ィとでも陰口叩かれてみろ。お前ら、原形留めねェことになるぜ」
声音はいっそ穏やかだったが、視線を向けられた男は、何か感じ取ったのか、凍りついたように動こうとしない。
「そういや、おれの母親がどうとかほざいてやがったな」心臓の真上へと銃口がにじり寄る。言葉の向けられた先は別だと言うのに、軽く突いたり、くすぐってみたり、懐いてくるときの彼のようだと、場違いは承知でマルコは仄かにあたたかい気分になった。「父親は誰か、調べられるもンなら調べてみりゃあいい。そうすりゃ上の連中が妙におれを盛り立てようとしてるのも納得がいくはずだぜ」
「――父親だと?」
「やっぱり知らねェのか。失敗して命拾いしたな、お前ら――こっちのおっさんは知ってるみたいだが」無表情は死守できても、心音までは制御できなかったらしい。エースは目を伏せた。「二度とおれに関わるな。次は見逃してやれねェ。ここはおれがはじめて手に入れた、居心地のいい場所だったんだ」
「雨に唄えば」のオルゴール音が秘めやかに鳴り出す。あんたと行きたかったな、と聴き取れぬほどかすかな呟きを耳が拾う。
轟音。衝撃。激痛すら知覚できぬまま、マルコの意識はそこで爆散した。
(こよいさま)
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