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四 話
「バイトでも雇う気ない?」
「藪から棒になンだよい」
ふた月程で、猫の隣がエースの指定席になった。毎日でも決まった曜日や時間があるわけでもない。ただふらりと二、三日おきに現れて、差し出される酒を美味そうに飲んで、他愛のない話をして帰っていく。
「こんな暇な店に人を増やしてどうする気だよい」
「だから、人増やして、ちゃんと宣伝して、お客さん増やすんだよ」
あの夜のことを持ちだしたのは一度きり。酷く酔っていたし、その次のときには何も言わなかったから忘れているかもしれない。そう思うのも都合のよい願望にすぎないとはわかっている。
「ここは暇でいいんだよい」
「暇ならさ、どっか遊びに行こう」
「随分強引な理屈だよい」
エースの話はいつだって唐突で、その思考の飛躍をこの頃は楽しんでいる。嬉しそうに、探るように、偉そうに、くすぐったそうに、寂しそうにエースは感情を揺らがせる。豊かに、あけすけに、そのくせ、肝心なことは奥深くに隠す手合いだと、根拠もなく確信している。
「遊びてェならサッチあたりを誘えよい」
多分うんざりするくらい引き摺りまわしてくれる。その回答はどうやら気に入らなかったらしい。口先が尖る。
「じゃあさ、携帯番号教えて」
「持ってねェよい」
「……連絡つけらんねェじゃん」
「ここに来りゃいるだろい」
「そういうもんじゃないだろ」
「そうかい」
そういうものじゃない、ならどういうものだとこの青年は言うだろう。聞いてみたい気もするが、口にはしない。ここに来れば、会える。来なければ、会わない。エースの番号をマルコは知らない。知っているのは着信音の「雨に唄えば」だけ。
「休みの日は何やってンの」
「何も」
「…ここの店は長いの?」
「ああ」
「どれくらい?」
「十年以上だねい」
「オーナーいるの?暇でいいなんてさ、どんな人なの?」
「確かに変わりモンだねい。まだ若いってのに南の島で楽隠居してるよい」
おかげで気楽で暇なバーテンをやっていられる。自分で言ってもみてもろくでもない話だった。他人の金と他人の度量で無為を食んでいる。過ぎた待遇。
「あんたも、そんなふうに暮らしたい?」
「おれはここで十分だよい」
「…ずっとバーテンやってたの?」
「そうだねい」
「どうしてこの街に?」
「理由なんざねぇよい」
「何から逃げて?」
「……」
言葉に詰まる。グラスを磨く手を止めれば、覗きこむ眼差しとぶつかる。追い打ちをかけるように再び問い。
「恩人ってどんな人?」
「……今日はえらく聞きたがりだねい」
今日はさほど飲ましていないし、別に不機嫌という訳でもなさそうだ。何を知っているのかと疑って、そんなはずはないと打ち消す。
「詮索されんの、あんた嫌いそうだから」
この青年と再会したのは偶然だ。引き留めたのは己だ。ここに招いたのは。だから、そんなはずはない。
「我侭言われんのも、嫌いそうだよな」
不意にくたりと微笑う。それだけでわずかに安堵する。エース、と呼びかけようとして、遮られる。
「なあ、そのカウンターの中、入ってみたい」
「駄目だ」
「なんで?」
「…ここは、」
反射で拒絶して切り返されて言い淀む。無様極まりないと自嘲する。この青年は何を知っているのだろうか。何を知りたいのだろうか。それとも、己が過剰にすぎるのだろうか。過剰に、何を怖れているのだろうか。
「…バーの裏側なんざ、客に見せるもんじゃねぇよい」
そうか、と黒い頭が素直に頷いて、でもさ、と呟く。
「あんた、少しはそこから出てこいよ」
「バーテンに言う台詞じゃあないねい」
真直ぐな眼差しから目を逸らす。かちりとグラスを噛む音が聞こえる。エースの癖。ふちを挟む薄い唇と獣みたいに尖った犬歯の。
「あんたは嘘吐きだ」
隙間からこぼれる弾劾はどこか柔らかい。
「本当はケータイを持ってるし、ここに来たのも十年前じゃないし、ここのオーナー若い人じゃないだろ」
「、エース」
「ケータイは、裏口から入れてもらったときに転がってるの見た。『SLEEPING IN』があの場所に移ったのは八年前だ。あんたあそこで修行したって言ったろ」
探したとき、ちょっとだけ調べたんだ。そう言って、言葉を切る。
「………」
言い訳のしようもないし、弁解するほどのことでもなかった。少しばかりしまったと思ったが、むしろ今度目を反らしたのはエースの方だった。
うつむいた額に癖っ毛がかかる。青年らしい鼻筋と、子どもみたいな雀斑。憤りで口元を歪めて、眼差しは手元ではないどこかを見ている。
本当の歳を聞いたことはない。ラストネームも知らない。どこに住んでいるのか、何をしているのか、どうしてここに来るのか。何故そんな顔をするのか。
「おれは、あんたの言葉の裏なんて知らない。あんたの考えてることなんて、これっぽっちもわかンねェよ」
手の中の最後の一口を飲み乾す。隣の猫がするりと席を降りる。「ごちそうさま」と律義に言って幾ばくかの紙幣を置く。来たときと変わらない足取りで出ていく後ろに、タウザーが尻尾を揺らしてついていく。猫も人も振り返ることはなかった。
喧嘩をした。らしい。
少なくとも先方は喧嘩をしているつもりらしい。とは言え、二十代の青年の意味する喧嘩が四十間近のそれと同じかどうかは怪しいところだ。何故ならまずもって、マルコには原因がわからない。何に怒っているのかわからない。表層の現象は、ただ青年が店に来ないということだけだ。二日と置かず目の前に現れた雀斑顔を十日近く見ない。喧嘩したらしいということも、昨日ふらりと寄ったサッチに聞かされた始末だ。当事者がその事実を第三者から聞くというのもおかしなものだ。
「身に覚えねぇの」
「ないよい」
「そりゃ最低」
いつから来てないかと問われて、十二日前の日付を答える。何を話したか最大漏らさず教えろと言われて記憶を探る。
暇な店のこと。携帯の番号。いつになく聞きたがりだったエースの口元。少しばかり機嫌を損ねたが、そんなことは良くあることだ。次に来るときはいつだって、屈託がなかった。
「おまえ自覚ないのね」
「何の」
「そんだけ隅々まで覚えといて、なんでわかんねぇのさ」
「何を」
「…おまえのケーバン、おれも知らねぇ」
「かかって来てもとらねェよい」
「メールは?」
「あらかじめ来るとわかってるものしか見ない」
「せめてエースにもそれを言えよ」
「理由を聞かれても納得させてやれねェよい」
「…他のやつは」
「ここの登記と届け出がそうなってる。矛盾したら混乱するだろい」
「………」
不正な営業をしていると言ったも同然だったが、サッチはため息ひとつだけついて、何も言わなかった。ささいなことだ。マルコにとって嘘をつくのは習い性だが、エースを騙すつもりで吐いた嘘などひとつもない。息を吐くように偽るのに慣れて、そして、暴かれない嘘ならもっとたくさんあった。
「教えてやろっか」
にやにやとチェシャ猫じみたリーゼントが笑う。喧嘩などしていない。喧嘩をするほどの意見の相違などない。エースが一方的に怒っているだけで、気が晴れれば戻ってくるし、呆れ果てたなら二度と来ないだろう。喧嘩、などではないのに。
「おまえが悪い」
「…」
「嘘が悪ィんじゃねぇよ。おまえののらりくらりの態度が悪い」
黙って氷を削る。スピリッツ用の丸い氷を削るのは嫌いじゃない。集中していれば、まとはずれな戯言も聞き逃せる。
「喰う気がねぇなら、気ィもたせるような態度とんなよ」
知ったような口ぶりに片眉をあげる。腹が立つほどに正確に読み取ってサッチが応える。
「エース見てればすぐに分かんじゃん。…ってのもまあウソじゃねぇけど、こないだ偶然会った時、酔い潰しちゃって全部吐かせちゃった」
キラッと自分で言うウソ寒い野郎と手元のアイスピックを見比べる。死体の始末が面倒だよいと呟けば、殺しても死ななそうな男がけたけたと笑う。笑って、スツールから落ちて這い上がって笑いすぎの涙を拭って、ふざけた仕草のまま穏やかに問う。
「もうひとつ、教えてやろっか?」
「……いらねェよい」
「おまえは途方に暮れてんの。動揺してんの。だからおれにしゃべってんの」
「………」
歪になった出来そこないの氷を放り出して、マルコは憮然と今時リーゼント頭などを晒す喰えない男を見返す。マルコがサッチにしゃべるのがおかしいと言うのなら、この男がここまで踏み込んでくるのも、今までにないことだった。互いに言わず聞かずを暗黙の了解としてきた。それでも、この男はおそらく知っているのだろう。誇張して流された噂話は碌なものではなかったはずだ。それでものうのうとここで他人の事情にお節介をやいている神経が理解できない。
「てめェは何がしたいんだよい」
「とりあえずさ、『おれを挟んで喧嘩すんのやめてくれる?』」
自分から口ばしを突っ込んでおきながら、いつだって軽薄なリーゼント頭は似てもいないエースの真似を披露する。
「エースから伝言。聞きたい?」
「……」
「愛してるっていってくれなきゃゆるさないゾって」
「………もうちょっとまともな嘘をつけよい」
「んじゃ、とっとと腹括りやがれヘタレ野郎」
「てめェの戯言なんざ聞いてねェ」
「迷惑なら、もう行かない」
「……」
「おれ、結構楽しかったけど、あんたにとっては違ったのかもな…ってこりゃ伝言じゃなかったな。なぁ…どれが本当だと思うよ?」
返信も預かるぜとサムズアップしてみせる男をトレイで優しく撫でて、とびきりキツい一杯を与えて黙らせる。
こんな男に伝書鳩を頼んだのでは、きっと、言わないことまで伝わるに違いないと。
どれだけ酔態をさらしてもきっちり金だけは置いていくサッチを追い出して店を閉める。
薄暗く灯りを落とした店内にタウザーが戻ってくる。ミルクとフードを出してやり、自分用のグレンリベットをグラスに注ぐ。猫はサッチにはなつかない。煩すぎるのだろう。いつも入れ替わるように出ていき、見計らったように訪れる。客の中ではエースも騒がしい方だが、不思議と傍に寄っても逃げない。うまが合うのか、呼吸が合うのか、真っ黒の癖っ毛が並んで座れば黒猫が二匹という風情がある。
強いアルコールを舐めながら、一人笑う。うっかり猫に例えてしまった「恩人」もきっと彼を気に入るだろう。威厳に満ちた巨体に磊落な笑みを浮かべてエースの向こうっけの強さを喜ぶだろう。会わせてみたいものだと思うが、そんな機会は決してこまい。あれをこちら側に引きずり込んではならない。
あけすけに笑うエースはどこか不安定だ。あちらとこちらの境界線の上を揺れているように見える。引けば容易く手の中に墜ちてくるのかもしれない。もう一度と望めば拒まれはしないのかもしれない。あるいは明日、己がここからいなくなるのだとしても、悪党が欲しいものに手を出さない道理などない。本当は。
カウンターの中を見せてほしいと言われたとき、にべもなく拒絶した。そこにマルコのろくでもない「お守り」がある。悪徳の固まりでしかないそれを、いまだに手の届く場所から離せずにいる。それを腹の奥に呑んだまま、素知らぬ顔で無為と平穏を貪っている。
―――かつて「組織」に泥を塗って逐電したとき。それを手に入れた代わりに、もう二度と失う人間は手にいれまいと願った。
無造作に壜を傾けて、ごぼりと溢れ出る酒を眺める。琥珀の香りとともに封じていた記憶が溢れる。ウイスキーならアイラ。テキーラならマリアチかエルテセロ。たいして飲めもしないくせに、癖のある酒ばかり好きな男だった。
かつて、王として生まれついたような男がいた。その将来はあらかじめ「組織」の跡継ぎであると決まっていた。唯人なら過酷な責務が、まるで――少年だった時分から――その器に足りないかのような人間だった。この上なく得難い資質。誰もがいずれ彼に率いられる「組織」の繁栄を信じた。今となれば滑稽極まりないことに、マルコもその一人だった。死線をさ迷う程の傷を負ってその男を守り抜いた。要らぬ二つ名までもらって、慣れぬ守り役を引き受けて、生きていくためにあらゆる人の善意と悪意を教えた。懐いてくるのを無碍にすることはできなかった。
ある日その男が言ったひとことがマルコの人生を一変させた。「ここは、狭すぎる」と。
明るく言い放つ奥に冷たい怒りがあった。頑是ない子供のわがままのようなのに、「組織」が抱える問題を鋭敏に指摘していた。そこはあらゆる場所に隠然たる力を持ちながらも、旧弊に縛られた世界だった。その男を縛りつけるには、あまりにも矮小だった。男は力に満ちていた。ここに生まれていなければどれほどの運命を選べたのだろうと思った。そしてそれまで、己が彼に良かれと教え強いてきたことがどれほど無意味に響いたのだろうかと。
庇護し仕えるはずの人間を逃がした。資金源をひとつ潰してつくった金を持たせた。最後の日、男は清々と笑って「ともに行こう」と片方しかない右腕を差し伸ばした。逃亡のさなかで、男は左腕を失っていた。追手に傷付けられたのではない。行きずりの子どもを事故からかばって負った傷だった。心底呆れて心底恐怖した。何故笑っていられるのか。何故裏切った相手に手を差し出せるのか。失われたのが、何故己の腕ではなかったのか―――。
頷けなかった。どうしようもなく魅かれていた。何もかも否定された憤りがあった。あの明朗な狂気を呑み込めると思わなかった。差し伸べられた手を拒絶した。まともではない世界で裏切り者の名を受け容れ、逃げ続けることを選んだ。もう二度と失う人間は手にいれまいと願った。
あれから五年。追っ手に囲まれ、行き倒れ寸前を拾ってくれたオヤジへの恩は計り知れない。薄暗い安寧の中で、泥を食むような怒りも、真綿で首を絞められるような後悔もゆっくり忘れていった。このまま爪を隠してここに埋もれていくのも悪くないと思っていた。
そんな時に現れたのがあの青年だった。―――似てはいない。決して似てはいないのに、思いだす。笑っていたかと思えば遠くにある眼差しが、馴れた風情と滑稽な程の真摯さが、容赦のない暴力と子どものような含羞が。あけすけなのに隠される本心が。何より、否応もなく人を惹きつける力が、薄れたはずの記憶を甦らせる。
引けば落ちてくるのかもしれない。それでも引いてはならない。招くべきではなかった。もう追い出せもしない。似てはいない。似てなどいないのに、裏切られることを恐れている。二度と来なければ良いと思う。何故来ないのだろうかと思う。
―――途方に暮れている。
あれをどうしたいのだろう。あの日魔物のように訪れた真っ白な激情は今はない。ただ深爪の指を、陽に灼けた腕を、見知らぬものを睨み付ける癖を、他愛のない話に笑い転げる馬鹿みたいな仕草を見るたびに、背の裏をざわつく気配がする。グラスに口をつけ、嬉しそうに悔しそうに美味いと言われるたび、我ながらガキじみた満足感が胸をひたす。まだそんな欲があるのかと自嘲する。引きずられているのは己の方か。狼にも犬にもなれず、ここから一歩も動けず、届かないものから目を逸らしている。
気がつけば開けたばかりの二本目のボトルが空に近い。知らず飲み過ぎた。二日酔いは確定だ。明日は店を閉めるかと考えて、明日には彼が来るかもしれないと考え直す。自分の思考を嗤って、引きずられて落ちる先は何かと考えて、考えることを止めた。
(いねこ)
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