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六 話
問い質したいことはいくらでもあった。問い質して良いのかという恐れがあった。問う機会など既にないのかもしれなかった。そして問う前に問われれば、答えることなどできなかった。
一睡もできず迎えた翌日。いつも通り開けたた店にエースは来なかった。次の日も、その次の日も。少ない客の相手を淡々とこなし、表面上はなにくわぬ態度を装いながらも、一人のことだけが頭の中を占める。七日目にふらりと訪れたサッチを捕まえた。サッチはこの界隈を縄張りとしている。こう見えて表にも裏にも顔が広い男だ。エースが店に来なくとも、近くに居れば情報は入ってくる。
「なんだァ?また喧嘩したのか」
笑いながら、そういや最近会ってねぇなと呟く。歓楽街の真ん中にある古い映画館、チェーンの牛丼屋、深夜のコンビニの雑誌コーナー、そういった場所でよく見かけてたと言う。カウンターを出ることのない、マルコの知ることのできないエースの姿。メール打っといてやるよとこれみよがしに自慢するのに苛つく気もおきない。そうじゃない、と遮ってサッチの目の前にベレッタをごとりと置く。
わざとらしく目を剥いて見せる男とは、今まで一切互いを詮索することを避けてきた。あくまでも堅気のバーテンだという態度を崩したことはない。それを破ることの躊躇いはもはやマルコにはない。助力を請えるのはこの男しかいなかった。
「見られたよい」
「エースにか?馬ッ鹿だなァ」
その誹りは甘んじて受ける。しかし分解していた部品を組み立てられた話をすれば、さすがに笑みが消えた。
「銃マニアの一般人…ってわけにはいかねぇか」
マルコはエースの力を見ている。サッチも何か思い当たるフシでもあるらしい。
「ただまあ少なくともおまえを殺りにきたわけじゃねぇと」ちらりとマルコの凶状も知っていること匂わせる。最初からマルコの首が目的だったなら、見つけた銃で背中から撃てば良い。姿を消す理由がない。
「それはわからねぇよい。証拠を握って数と段取りを揃えてるだけかもしれねェ」
純正のベレッタは闇ルートでは滅多に流れない。それゆえわかりやすい証拠となってしまう。わざと銃を晒して姿を消した理由などいくらでも思いつく。いつでも殺れるという脅し、隠れても無駄だという恫喝。今まさにエースの口から報告がなされ、功を逸るチンピラが大挙してこちらに向かっている可能性も否定できない。
「馬鹿。そこは疑ってやんなよ」サッチが心底呆れたという声を出す。
「あいつすっげぇ楽しそうだっただろーが。最初っから標的がおまえで、あれが全部演技だったってならおれァ泣くぞ。千歩譲ってそーだったとしてもさ、そりゃおまえ逃げろってことかもしんねーよ?」
疑っておいた方が、傷が浅く済む。そんな卑小な防御を見透かされたようだった。
「逃げろ、か」
「逃げる気ねぇんだろ?」
「…ねぇなァ」
多分逃げるのが正解だ。正体の割れた逃亡者が長く留まってもろくなことはない。ここは居心地が良かったが、何もかも再び手放して身一つで逃げ出すべきだ。そう考えて、居心地が良かったのはエースが現れてからだと思いなおす。それまでの自分なら、恐らくここにはもういない。とっくに逃げ出していただろう。三ヶ月前の自分なら。
まあ、あちこち調べてみるわ、と一杯目を急いで飲みほしてサッチが慌ただしく出ていく。カウンターの中からマルコはそれを見送る。ふと、ここから出てこいといったエースの言葉が甦る。丈の高い、どっしりとした木材でつくられたバーカウンター。客とバーテンを隔てる不可視の境界線。磨かれた木目の表面をなぞる。エースは、何時だって滑稽なくらいに真摯だった。疑うなと胸のうちで繰り返す。
隠していることがあると寂しそうに吐露したエースを、決して疑うなと。
十日目に鳴らないはずの携帯電話が鳴った。明け方の四時に三コール。間をおいて、ワンコール。取り決め通り三度目を奏で始めた機械のフラップを開けると、前置きなく喋り出す。
「オヤジの周りを嗅ぎまわってる奴がいる」
声には聞き覚えがあった。「オヤジ」こと「白ひげ」を戴く組の、幹部の一人。冷然とした美貌を思い出す。
「正確には二ヶ月前から。一人。一週間前、警備の隙を狙ってオヤジに接触した」
聞く前に要点を説明していく。切れ味の良い話し方は口を挟む隙もない。しかし、そもそもマルコは「白ひげ」にとっては非公式の客分扱いだ。組織の動向など報告される理由がない。しかし、あいにく疑問は発する前に応えられた。
「それがおまえの店に入っていくのを見たと聞いた」
一瞬の遅滞の後に、事態を正しく理解する。思わず息を飲んだ、その呼吸は機械越しにも伝わってしまっただろう。
「馬鹿な」
「黒髪癖毛、十代後半から二十代の背の高い男。思い当たる節は?」
「ある、が、待てよい」
「名前は」
「…エース」
「……ふん、どんぴしゃだ。おまえさんの古巣からだ。いい度胸だ」
「イゾウ、待て」
「身の潔白は行動で晴らせ。そいつは次に何時来る」
「ここにはもう来ていない。だから…」
「下手なかばいだてをするなよ、『不死鳥』の」
来たら連絡を寄こせ。答を待たずにぶつりと切れた。苛立ちまぎれに投げ捨てる。まさかという思いと、やはりという思いが入り混じる。エースが狙っていたのはマルコではなかった。それでいくつかのことは腑に落ちる。しかしよりによってオヤジを狙っていたというのなら最悪だ。それが目的でこの街に来たのか。偶然だと思っていたことは、どこまでが偶然で、どこまでが意図的だったのだろうか。マルコが「白ひげ」の庇護下にあると知っていたのか。わかっていて近づいてきたのか。しかしそれでは、今、自らに疑惑を持たせて消える意味がわからない。
マルコの古巣である「組織」と「白ひげ」は対立する関係にある。マルコの引き起こした厄介事により跡継ぎを失った「組織」は内部の争いが表面化し、ここ数年は凋落の気配が著しい。反して、昔から一定の勢力を保ちつつも穏健派だった「白ひげ」は十数年前に突然拡大に転じ、大小の組を呑み込み、今や昇竜の勢いで「組織」を浸食しようとしている。きっかけとなった出来事に諸説はあるが、一人の男の死が引鉄になったという説が有力だ。この時代に「大悪党」とまで呼ばれた男。その死を契機に裏世界の地図は大きく様相を変えていった。マルコがまだ成人になったばかりの頃の話だ。
勢力図の塗り替えにより境界を接するようになった二者は今や一触即発の状況だ。何が抗争のきっかけになるかわからない。そこに元「組織」の人間で、今は裏切り者として「白ひげ」に庇護されているマルコが、白ひげに接触した「組織」の人間と会っていたとなれば、それは疑惑ではすまない。イゾウの対応は生温い。マルコが同じ立場にあれば、深夜だろうが明け方だろうが、引き摺って来て力づくで口を割らせる。まだ隠されていることがある。
浅い眠りから引き剥がされた頭が痛んだ。薄暗い事務所の中、ソファの傍らに転がした壜を煽る。喉を焼く酒がわずかに苛立ちを宥める。久々に口にした青年の名がひどく懐かしかった。エースは何故白ひげに近づいたのか。殺すためか。それに失敗したのか。それとも別に目的があったのか。それを達したのか。エースがここに戻ってきたらどうするのか。
報復を受けると分かって突き出すことなど考えられない。ならば大恩ある人を裏切って逃がすのか。瀕死でゴミのように転がっていた己を救ってくれた人間を裏切るのか。エースの目的がオヤジの生命だったとしたら、己はどうすればいい。
エースにオヤジを会わせてみたいと思っていた。知らずそれが叶っていたとは滑稽な話だった。決してこんな状況を望んだわけではなかった。自分勝手な思考に知らず自嘲する。
それでも、まったくの場違いとわかっていても、オヤジがエースを見て何を感じたのか、聞いてみたかった。
十五日目に再度サッチが訪れた。「白ひげ」にエースが接触しようとしたこと、イゾウから伝えられたエースの正体は既に伝えてあった。携帯電話の向こうでしばらく絶句して、深刻な声でなんでおまえが一方的におれのケータイ知ってんだよとぶつくさ呟いていた。わかっていても派手なリーゼントを見ると殴りたくなる。
その上、マルコの顔を見るなり「年頃の娘に家出されたヤモメ男みてぇ」などとぬかしたから「心労のあまり」オーダーを間違えてミルクベースのカウボーイを出してやると心底情けなさそうな顔になったことのでようやく溜飲を下げる。
「エースが昔のおまえんとこのって情報は本当みたいだ。よっぽど本家筋に近いけどな」
「見た顔じゃなかったよい」
「入ったのは二、三年前ってとこだろ。何かワケありっぽい話もちらほら聞いたしな」
何か最近ごたついてンだよな。世代交代の気配もあって、キナ臭い。グラスの中身をちびちびと啜りながら、サッチがぼやく。「若手ん中じゃ一番の有望株って話とさ、あいつなんざ全く信用ならんって話が両方聞こえてくるわけ」
そっちは?と聞かれて「何も」と応える。
「あれから別に催促も来ねェ。オヤジが狙われたってンならもっと殺気だってもおかしくねェはずだよい」
そもそもエースがオヤジに「接触」したという言葉が曖昧だ。襲撃でも談判でも直訴でもない。いったい何をしたら「接触」なんてニュアンスの言葉に落ち着くのか。
「そりゃ解せねぇけどなァ。そっちは結束固すぎて探るのちょーたいへんなんだもん」
どちらにしろ探されていることに違いはない。エースが姿を消したのが二週間前。「白ひげ」から追われ始めたのがその三日程後。十日にわたってエースは逃げおおせている。あるいは既にこの街から出て、戻ってくる気はないのかもしれない。そうであった方が良いのかもしれない。例え死体となっていたとしても、それを親切にマルコに伝える人間はいるまい。
何故ここでただ待っているのだろうか、約束もしていない、何も交わしていない、エースの行くべき場所も帰るべき場所も知らない。待っていることすらエースは知るまい。
「…またウソ寒ィこと考えてンだろ」
「……別に。てめェの悪趣味ほどじゃねェよい」
空になったグラスを押しやって、カウンターにべたりと張りついてサッチがにやつく。
「おまえが動けばこじれる。わかってンだろ」
忠告ひとつ、素直に寄こせない男にため息が出る。黙って二杯目を差し出してやる。
「……ラム?ミルク?」
「ありがたすぎて手が滑ったよい」
「…なんかいいダークラム使ってやがるし。もったいねぇ…」
「よりにもよっててめェがぬかすな」
サッチ専用の芋焼酎も大概良い品だ。一緒にしまってあるエース専用と、それを見せたときの赤く染まった頬を思い出す。舌打ちしそうになる。こういう記憶の連鎖が一番堪らない。
冷酷に最悪の事態を想定する思考と、無造作に記憶をなぞる感情が交互に押し寄せる。まさかと思い、もしもと考える。期待し、期待しまいとする。諦めようとし、諦めまいとする。振り子のように揺れる感情に振り回される。嘘を吐くことも表情を隠すことも慣れている。なのに綻びを止められない。サッチなんぞに心配されるほどに。
リーゼントのチェシャ猫が見透かすように目を細める。あらためておかしな男だった。信用してしまっている自分自身も可笑しかった。もっと滑稽なのはエースがいなければ、互いにここまで踏み込むことはなかったとわかっていることだ。
「…よくよくお節介な野郎だよい」
「黙らっしゃい。あー役に立たないオッサンはほっといて蛇の道にでも聞いてみっかな」
「死なねェ程度にはしゃげよい」
「おまえこそ見慣れねぇのがニ、三うろついてんぞ」
「イゾウの手だろい」
「信用されてないな」
「されようがねェよい」
「違いねぇ」
笑う男に今度こそは正しいオーダーを叶える。元より返せるものなどそれしかなかった。
事態は進展を見せないまま一ヶ月が過ぎた。追手に踏み込まれることもなく、裏切り者として申し開きに呼ばれるようなこともない。何事もなく過ぎていく日常に違和感すら覚える。
エースの消息は杳として知れない。ガラの悪いのがうろついている所為で少ない客足はさらに少なくなった。猫も警戒しているのか、店が閉まってからしか来ない。来れば隣の不在の席をじっと眺めている。サッチだけは時折ふらりと寄るが情報共有だけですぐに出ていく。
眠るためだけの部屋に帰る気もおきず、事務所で寝起きする日々が続く。ここで待つだけなのかと歯噛みしながらも、ここで待っていなければならないという強迫観念じみた思いがある。毎夜狭いソファで眠るためのアルコールを自動的に送り込む。浅い眠りを貪って、決まって届かない夢で目が覚める。エースであり、かつて守れなかった人間であり、誰ともわからない人である影に手を伸ばしては、失う。
エースは何故ここにいたのか―――。分かった気でいた。何も約束しなかった。伝えたつもりでいた。さらけ出すことなどできなかった。携帯電話の番号を教えろと言った。そんなものがあっても連絡などとれない。そういうもんじゃないだろ、と聞きわけのない子どものようにたしなめられた。あれから何日が経ったのか。
疑うな。疑うなと繰り返す。それだけが理性を支えている。全ての可能性を考えて、理解して、覚悟した上で、それでも疑うなと。
四十日目。
仕事の途中だった。事務所に置きっぱなしの携帯電話の振動に気付いたのは偶然だった。見知らぬ番号にまさかと思った。通話ボタンを押すことすらもどかしい。
「―――…」
聞こえてきた声は予想とは違った。しかし予想以上の人間だった。呼ぶ声がわずかに震えた。
「―――オヤジ」
(いねこ)
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